「上杉綱憲」の版間の差分

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'''上杉 綱憲'''(うえすぎ つなのり、[[寛文]]元年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1663年]][[11月27日]])- [[宝永]]元年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1704年]][[7月3日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[外様大名]]。[[出羽国]][[米沢藩]]第4代藩主。[[吉良義央|吉良上野介義央]]の実子として有名で、[[忠臣蔵]]のドラマ・映画などでよく登場する。
 
 
[[高家]]肝煎[[吉良義央|吉良上野介義央]]の長男として誕生。母は米沢藩第2代藩主[[上杉定勝]]の娘、富子。幼名・通称は三之助(吉良公子時)、のち喜平次(上杉家養子入り後)。
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討ち入り後、上杉謙信以来の武門の名家としての名声も地に落ちて、江戸市中には「上杉のえた(枝)をおろして酒はやし 武士はなるまい町人になれ 景虎(謙信)も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出もやらねば」などという落書が大量に貼られてしまった。
 
元禄16年(1703年)8月21日、病のため隠居し嫡男[[上杉吉憲]]に家督を譲った。
 
その後の9月14日将軍[[徳川]]吉に来国俊の脇差および牧渓筆の双幅を、御台所[[鷹司信子]]に為氏筆の古今集を、将軍生母[[桂昌院]]に為重筆の古今集をそれぞれ献上している。[[永元]]元年([[1704年]])6月2日に死去、[[享年]]42。国許の[[米沢市|米沢]]御廟に葬られた。法名法林院殿法印権大僧都映心。
 
なおこののち上杉家の財政逼迫は深刻化し、この建て直しは、孫に当たる[[上杉鷹山]]の藩政改革を待つことになる。