「明眼院」の版間の差分

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|画像 = [[file:Myogenin.JPG|270px]]
|所在地 = 愛知県海部郡大治町大字馬島字北割114
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 10 | 緯度秒 = 28.3 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 136 |経度分 = 49 | 経度秒 = 14 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP-23
|開山 = 聖円
|開基 =
|中興年 = [[延文]]2年()([[1357年]])
|中興 = 清眼
|正式名 =
|別称 =
|札所等 =
|文化財 = 旧多宝塔(国の登録有形文化財)<ref name="toroku">平成26年10月7日文部科学省告示第151号(参照:{{citewebCite web|url=http://www.pref.aichi.jp/0000069884.html |title=登録有形文化財(建造物)の登録についてお知らせします |publisher=愛知県 |date=2014-03-18 |accessdate=2014-05-25}})</ref>
|公式HP =
|公式HP名 =
かつて[[尾張国]][[海東郡]]'''馬嶋村'''(まじまむら)と呼ばれていたこの地に、[[延暦]]21年([[802年]])に[[最澄]]の弟子である[[聖円]]が、{{要出典範囲|「'''五大山安養寺'''(ごだいさんあんようじ)」として[[開山|開基]]したのが始まりであるとされている([[奈良時代]]の[[行基]]の[[開山 (仏教)|開山]]とも伝えられている)|date=2014年5月}}。
 
[[南北朝時代_ (日本)|南北朝時代]]に入ると、[[建武_ (日本)|建武]]以後の争いの戦火で寺の大半が焼失して荒廃状態にあった。そこへ訪れた清眼({{要出典範囲|「馬嶋清眼」とも呼ばれている、[[永和 (日本)|永和]]5年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]没<!-- [[康暦]]元年とする歴史書も多いが、康暦への改元は清眼死去の3日後の3月22日のこと -->)が付属の白山社(現[[馬島社]])とともに再興して、[[本尊]]である[[薬師如来]]にちなんで「'''医王山薬師寺'''(いおうさんやくしじ)」と改名した|date=2014年5月}}。
 
[[延文]]2年/[[正平 (日本)|正平]]12年([[1357年]])のある日、清眼が自房である蔵南房(同寺首座)で睡眠をとっていると、夢の中に異国人が現れて、眼病治療の秘伝と眼病に効く霊水の在り処を告げた。目を覚ますと、その傍らに眼科専門の[[漢方医学]]の書が置かれており、夢で示された場所に行くと、霊水が湧いていた。これを薬師如来の化身によるものだと考えた清眼は、その書を精読したところ、異国人が伝えた秘伝の意味が理解できるようになった。そこで自房を眼病患者のために開放して、眼科治療を始めることになったのだという。
{{いつ範囲|date=2014年5月|その頃}}、明眼院に治療に訪れた[[キリシタン]]が[[江戸幕府|幕府]]や[[尾張藩]]の迫害を逃れていわゆる「キリシタン[[灯籠]]」を寄贈した。円慶らはその真意を悟ったものの、困窮するものを見捨てられないとして密かに安置することを許してこのことは[[明治維新]]まで寺の極秘とされていた。後に住持[[円海]]が[[桜町天皇]]の皇女の治療にあたったことから、明眼院の住持を[[権大僧正]]に任じた。
 
こうして、同院の名声は広まって全国各地から診察を求める患者が来訪し、[[大名]]の[[小堀政一]](遠州)や[[画家]]の[[円山応挙]]、[[国学者]]の[[本居春庭]]([[本居宣長|宣長]]の嫡男)なども同院で治療を受けたとされている。また尾張藩からも寺領として36石が与えられていた。
 
28世・円如は[[天保]]年間([[1830年]] - [[1844年]])初期に[[長崎]]に遊学して[[蘭学|オランダの医学]]を学び、治療に取り入れるなどしたという{{sfn|大治町史編集委員会|1979|p=567}}。
 
=== 大日如来坐像 ===
高さ110センチで桧材[[寄木造]]・玉眼の仏像。伝承では慈恵大師([[良源]])の作とするが、現在では[[平安時代]]の様式を模して[[鎌倉時代]]に造られたと考えられている。平時は公開されていない[[秘仏]]で大日堂に[[十二神将|十二神将像]]などとともに安置されている。[[2012年]](平成24年)に町指定文化財に指定された<ref>{{citewebCite web|url=http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=249350 |title=木造大日如来坐像 |publisher=文化遺産オンライン |date=2014-01- |accessdate=2014-05-25}}</ref>。
 
=== 仁王像 ===
かつて仁王門に安置されていた2躯の[[金剛力士]]像で、13世紀末〜14世紀初頭の鎌倉時代の造立とされる。阿形・吽形ともに片腕の先が欠損しているがその造形から[[慶派]]の仏師によるものと考えられており、[[2011年]](平成23年)に町指定文化財に指定された<ref>{{citewebCite web|url=http://www.town.oharu.aichi.jp/topics/201110_bunkazaisitei.html |title=町指定文化財に、新たに1件の文化財が加わりました |publisher=大治町 |accessdate=2014-05-25}}</ref>。なお、仁王門は明治24年の濃尾地震で倒壊して撤去された{{sfn|大治町史編集委員会|1979|p=596}}。現在、仁王像は旧仁王門跡地に屋根付きの格子に被われた状態で置かれている。
 
=== 宝篋印塔 ===
かつての明眼院墓地が町役場横にあって、南北朝時代に建立された[[宝篋印塔]]が現存している。[[1991年]](平成3年)に町指定文化財に指定された。
 
ほかにも後水尾天皇から賜った茶箱や、[[明朝]]から江戸時代にかけての花鳥図4幅など8点がいずれも愛知県指定文化財に指定されている<ref>{{citewebCite web|url=http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/location/oharu.html |title=大治町 |publisher=文化財ナビ愛知 |date=2011-05-06 |accessdate=2014-05-25}}</ref>。なお、13世・円慶が鎮守社であった白山社(現・馬嶋社)に奉納した[[神輿]]が現存しており、現在は大治町所有となっている。
 
== 交通アクセス ==