「日大紛争」の版間の差分

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== 背景 ==
[[1960年代]]後半に日本では18才人口の急増と[[進学率#大学進学率|大学進学率]]の向上により[[大学生]]の数が急伸し、大学教育の性格は[[大衆化]]しつつあった。日本大学はその潮流に乗り、[[1955年]](昭和30年)には約3万人だった学生数を[[1968年]](昭和43年)には約3倍の8万5000人まで急増させ、日本一の大規模大学となっていった<ref name=b />。一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生の不満が高まっていた<ref name=b />。(※組織の巨大化により、日大紛争後は定員割れが続き合格者数が毎年数名程度になるまでに凋落した)キャンパスの規模は以下の郊外の学部の敷地は広大であった<ref name=b />。[[三島教養部]]・[[日本大学工学部]]・[[日本大学農学部]]の3学部のキャンパスの規模は広いが、[[福島県]][[郡山市]]や[[静岡県]][[三島市]]など[[首都圏 (日本)|首都圏]]以外の郊外の学部と比較して以下の[[日本大学法学部]]・[[日本大学経済学部]]・[[日本大学歯学部]]・[[日本大学理工学部]]の[[東京都]]内の[[都心]]部のキャンパスの規模は狭かった<ref name=b />。
 
[[福島県]][[郡山市]]や[[静岡県]][[三島市]]などの郊外にある、[[三島教養部]]・[[日本大学工学部|工学部]]・[[日本大学農学部|農学部]]のキャンパスの規模は広大であった<ref name=b />ものの、[[東京都]]内の[[都心]]部にある[[日本大学法学部|法学部]]・[[日本大学経済学部|経済学部]]・[[日本大学歯学部|歯学部]]・[[日本大学理工学部|理工学部]]のキャンパスは狭小であった<ref name=b />。
授業料は毎年のように値上げされ、講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式、いわゆる[[マスプロ大学|マスプロ方式]]が中心で、当時[[エリート]]意識が高かった学生側も当局に環境改善を求める自治運動を起こしていたが、要望の多くは通らず、そればかりか古田重二良会頭による独裁経営の下、当局は学生の自治運動や政治運動を抑圧していた。古田会頭は大学経営に絶大な影響力を有していたため、これに批判的な[[全共闘世代]]からは主要な攻撃対象とされている。<ref name=a />
 
授業料は毎年のように値上げされ、講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式、いわゆる[[マスプロ大学|マスプロ方式]]が中心でありそれにも関わらず授業料は毎年のように値上げされた。当時[[エリート]]意識が高かった学生側も当局に環境改善を求める自治運動を起こしていたが、要望の多くは通らず、そればかりか古田重二良会頭による独裁経営の下、当局は学生の自治運動や政治運動を抑圧していた。古田会頭は大学経営に絶大な影響力を有していたため、これに批判的な[[全共闘世代]]からは主要な攻撃対象とされている。<ref name=a />
 
== 紛争前の学生運動 ==