「源行家」の版間の差分

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=== 最期 ===
義仲が頼朝の派遣した[[源範頼]]・[[源義経|義経]]の軍勢に討たれた後、行家は[[元暦]]元年([[1184年]])2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって[[和泉国]]と河内国(河内源氏の本拠地)を支配していた。元暦2年([[1185年]])8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は[[壇ノ浦の戦い]]後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の[[院宣]]を受け、「[[国地頭|四国地頭]]」に補任される(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する[[武士団]]の連中は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中、摂津源氏の[[多田行綱]]らの襲撃を受けこれを撃退するも([[河尻の戦い]])、大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの[[畠中城]])に潜伏する。翌年の5月、地元民の密告により露顕し、鎌倉幕府から命を受けた[[北条時定 (北条時政の甥)|北条時定]]の手兵によって捕らえられ、長男・[[源光家|光家]]、次男・[[源行頼|行頼]]とともに斬首された。
 
== 経歴 ==