「ヴワディスワフ・ゴムウカ」の版間の差分

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[[オーストリア=ハンガリー帝国]]クロッセン(現在の[[ポトカルパチェ県]]{{仮リンク|クロスノ|en|Krosno}})近郊出身。初等学校卒業後、機械工として働く。1921年、社会主義運動に加わり、1926年、共産党に入党した。共産主義労働者グループと労働組合の組織者だった。1932年に逮捕され、禁固4年を言い渡されたが、病気のため1934年に釈放された。1934年~1935年、[[モスクワ]]の[[国際レーニン学校]]で学ぶ。
 
[[第二次世界大戦]]勃発後、[[ナチス・ドイツ]]がポーランドを侵略し、占領政策を行い始めるとゴムウカはドイツに対する非合法的な[[レジスタンス運動]]([[パルチザン (軍事)|パルチザン]])に従事、これを指導した。[[独ソ戦|大祖国戦争]]が始まり、戦時中、影響力のある[[共産主義者]]となったゴムウカは、1943年、ポーランド労働者党([[:pl:Polska Partia Robotnicza|{{lang|pl|Polska Partia Robotnicza}}]]、'''PPR''')の書記長となるが、1948年党内におけるゴムウカ体制はソ連の意向に反する態度を取ったためソ連の[[スターリン]]と[[ラヴレンチー・ベリヤ]]により解雇され、その後ゴムウカは共産主義活動家やソ連派の集まる{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}を設立した。
 
[[第二次世界大戦]]勃発後、[[ナチス・ドイツ]]がポーランドを侵略し、占領政策を行い始めるとゴムウカはドイツに対する非合法的な[[レジスタンス運動]]([[パルチザン (軍事)|パルチザン]])に従事、これを指導した。[[独ソ戦|大祖国戦争]]が始まり、
戦時中、影響力のある[[共産主義者]]となったゴムウカは、1943年、ポーランド労働者党([[:pl:Polska Partia Robotnicza|{{lang|pl|Polska Partia Robotnicza}}]]、'''PPR''')の書記長となるが、1948年党内におけるゴムウカ体制はソ連の意向に反する態度を取ったためソ連の[[スターリン]]と[[ラヴレンチー・ベリヤ]]により解雇され、その後ゴムウカは共産主義活動家やソ連派の集まる{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}を設立した。
 
 
1944年1月1日、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の占領下ポーランドでの抗戦で[[ソ連]]軍の援護を行い、[[ポーランド人民共和国|ソ連の共産主義政権をポーランドに設立]]するため{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}(波蘭:Krajowa Rada Narodowa, KRN) により共産主義[[パルチザン (軍事)|パルチザン]]の[[人民軍 (ポーランド)|ポーランド人民軍 ]]が設立された<ref>http://encyklopedia.pwn.pl/haslo.php?id=3871193</ref>。ソ連軍によってポーランドがドイツから解放された後も重要な役職についた。1944年12月から[[:en:Provisional Government of the Republic of Poland]]で、そして1945年6月から[[:en:Provisional Government of National Unity]]の副首相兼回復領土問題相となった。
 
 
1945年12月からポーランド労働党の政治局員、書記長。ソ連当局の支援の下、ポーランドに共産体制を樹立し、政敵を大量に逮捕したことから、「小[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]」と称された。
 
 
しかし、[[1948年]]に右翼民族主義的な思想であると批判されてから影響力が低下し、同年9月3日、書記長から解任という処分を受けた。このためゴムウカは12月に[[自己批判]]を行ったが、政治局員には選出されなかった。1949年1月、全ての国家ポストを失い、ポーランド統一労働者党から除名された。更に[[1951年]]7月には逮捕・投獄された。
 
 
だが、スターリンの死とソ連の政策変更を経て[[1954年]]12月に釈放。[[1956年]]6月に[[ポズナン暴動]]が起こると、8月5日に党への復帰が認められ、10月21日には党の指導者的地位に当たる第一書記に選出される。[[ワルシャワ条約機構]]の影響下の中、体制維持に尽力する一方、自主的路線に政策を転換することを約束した。
 
 
結果的に第二次世界大戦後、東欧を支配していた[[スターリン主義]]的な風潮を、農業集団化の廃止、ローマ・カトリック教会への迫害の停止、検閲の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献した。このようなゴムウカの改革は当初こそ民衆に歓迎された。しかし、ゴムウカの改革は行き詰まり、カトリック教会との軋轢が日増しに増大。日を追う事に活発化、過激化する民衆による自由化運動を危険なものと判断し、国内の自由化運動を弾圧するようになっていく。[[1970年]]に大規模な労働運動がポーランド全土に拡大する中でゴムウカはその権力を失った。同年[[12月18日]]、第一書記辞任。