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=== 再び軍人へ ===
ソウルに到着した3人には職がなく、先に南下して韓国軍の前身である[[南朝鮮国防警備隊]]に入隊していた丁一権や実弟の白仁燁らの勧めもあり、1946年2月26日付けにて[[韓国陸軍士官学校|軍事英語学校]]<ref group="†">1945年12月5日にアメリカ軍との連絡調整のため開校</ref>履修扱いで南朝鮮国防警備隊に入隊し、中尉に任官される。釜山にて第5連隊の創設に従事、連隊長となり中佐<ref name="p456" /><ref>{{Harvnb|白|2000|loc=p. 101.}}</ref>。第5連隊創設時着任すると、白は1946年4月すぐ軍法会議、1947年11月に大隊対抗機動演習を国防備隊で最初察と双方の分担と権限実施しついて取り決め<ref name=book150>{{Harvnb|佐々木|1977|loc=上巻 p. 152150.}}</ref>。これには取り決めだけではなく、警察との関係を良好にする目的があった<ref name=book150/>。
 
1946年4月、喧嘩口論の末にある兵士が同僚を射殺する事件が起き、調べてみると殺意があったのではなく、小銃が暴発したのだという<ref name=book152>{{Harvnb|佐々木|1977|loc=上巻 p. 152.}}</ref>。ここで白は内々で済ますことなく、[[李致業]]中尉を裁判長、[[朴炳権]]中尉と[[呉徳俊]]中尉を検察官に命じて、警備隊として最初の軍法会議を開いた<ref name=book152/>。
 
1947年3月、[[三・一運動]]記念日に右派と左派がそれぞれ市内でデモをしたが、街頭での衝突が原因で死傷者が出る騒ぎにまで発展した<ref name=book150/>。警察の要請を受けた第5連隊は忽ちこれを鎮圧した。これによって官民の称賛を博し、アメリカ軍の信頼も厚くなり、間もなくして[[影島]]の米軍施設の警備を任された<ref name=book150/>。
 
1947年10月、作戦主任の呉徳俊大尉に機動演習を計画させた<ref name=book153>{{Harvnb|佐々木|1977|loc=上巻 p. 153.}}</ref>。当時は警備隊の性格が曖昧であり部隊の士気を何を目標として維持するか問題であった。そのため戦闘訓練を体験させ、軍隊や軍人とはこうであるということを各人に自覚させる狙いがあった<ref name=book154>{{Harvnb|佐々木|1977|loc=上巻 p. 154.}}</ref>。演習は各1個大隊を釜山と鎮海付近で対進させ、昌原付近でぶつけるという遭遇戦の指導であった。この時、釜山に駐屯していたアメリカ軍第6師団のオーランド・ワード少将の協力を得て装甲車隊を参加させてもらった。演習大隊長は[[朴基成]]大尉と崔慶萬大尉であり、演習は11月5日から8日にかけて実施された。参観していたワード少将、[[宋虎聲]]大佐、立法議員崔東旿、および各連隊長は賛辞を惜しまなかったという<ref name=book154/>。
 
1947年12月、新規に編成される第3旅団(初代旅団長、[[李應俊]])司令部の参謀長となり旅団編成に従事。