「三波伸介 (初代)」の版間の差分
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=== てんぷくトリオ ===
{{Main|てんぷくトリオ}}
「おとぼけガイズ」を解消後は[[1961年]]東京の舞台に復帰し三波は個人として[[太田プロダクション]]に所属する一方、キャバレーの余興営業は戸塚とその劇団仲間だった[[伊東四朗]]が「三波・戸塚コンビ」として継続していた
=== 「笑点」で司会者へ ===
[[1970年]][[12月20日]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[笑点]]」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年[[2月8日]]にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった[[前田武彦]]の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々[[落語]]に造詣が深かったこともあり、並み居る[[落語家]]達を相手に[[大喜利 (笑点)|大喜利]]を取り仕切った
[[1973年]][[4月20日]]に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。
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テレビとそのお茶の間で人気者の訃報に[[マスコミ]]の取材活動は過熱したが関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち「パパ(三波)はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と答えその様子が[[ワイドショー]]番組やニュースで繰り返し放送された。後年(時期不明)「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという<ref>ただし、息子の三波伸介(2代目)はこの説を否定している。以下「喜劇役者二代目三波伸介オフィシャルブログ」の「[http://ameblo.jp/minamishinsuke/entry-11276922679.html 母の話 その11]」より引用(2012-6-14閲覧)(引用開始)「そんな訳ないでしょう!!//イタズラと本当に倒れているのは明らかに違います!/母はすぐに気づきましたよ!/すぐに救急車の手配もしてます。/確かに母は/「私がいれば良かった!パパを一人にするんじゃ無かった!パパを一人で死なせた事は生涯、背負っていく!」/と叫んでいました。/しかし複数の医師の判断は/「発作が起きて十数秒で意識を失っています。/例え医師が横に居ても助けるのは難しい。奥様、ご自分を責めない様に」との事です。/母の名誉の為に記しました。」(引用終了) </ref>。コメディアンや演芸人には仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で悲しみを和らげる為に不謹慎な言動<ref>[[たこ八郎]]の死去など。</ref>やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、和子も事前に考えて用意した節があり発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し真偽は定かでない。
[[戒名]]は「'''施明院太伸三省居士'''」。三波の[[墓]]は[[埼玉県]][[所沢市]]の「所沢聖地霊園」に所在する。墓石には、三波の[[座右の銘]]であった「'''喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介'''」と刻まれている。
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* 実際に三波がライバル視していたのは[[渥美清]]と[[藤山寛美]]であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じ[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
* 三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻和子夫人と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の[[三波伸介 (2代目)|三波伸一(のちの2代目三波伸介)]]が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「[[男はつらいよ]]」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。[[1977年]]に公開された[[松竹映画]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』([[山田洋次]]監督・[[高倉健]]主演)で渥美が演じた渡辺係長の役を、[[1982年]]に[[菅原文太]]主演で[[テレビドラマ]]でリメイクされたとき、三波がこの役を演じている。
* のちの妻・和子夫人は児童劇団「銀の鈴」を経て、河井洋子の芸名で浅草ロック座でおもに[[ダンサー]]を勤める。この頃[[永井荷風]]に可愛がられダンサー仲間と食事をご馳走になったり、話し相手になり
*
映画の渥美清、舞台の藤山寛美、そしてテレビの三波を指すのが通例であり、三波はテレビでの成功を収めた後、今度は渥美と藤山のライバルとして彼らと同じ舞台で競うことを新たな目標にしていたとも言われる。</ref>されるが、その目標は自身の死により途中で断たれることとなった。
* NHKから伊東四朗に[[バラエティ番組]]『[[コメディーお江戸でござる]]』<ref>1994年8月〜1999年3月まで</ref>の出演を依頼された際にはかつてのテレビ放映した舞台実況公開コメディーの再現と復活の熱意を制作スタッフから伝えられ、[[滝大作]]を交え企画段階から制作助言を行い伊東は「『お笑いオンステージ』は三波(伸介)という“上”がいて、私はわき役だったので楽でしたが、今回は座長として番組の中心にいるので苦労していますよ。全体を見渡さなければなりませんから。」と苦労を語っていた<ref> [http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=entertainment011 特集 なつかしの番組 コメディーお江戸でござる-NHKアーカイブス]</ref><ref> 番組降板後に伊東は「てんぷくトリオ(ひいては三波)が果たせなった将来の一部を試みることが出来た。」と述懐している。</ref>。
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* 生前に[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]・[[ライター]]・[[絵画]]に造詣を持っており、三波伸介一門が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。
* 息子の伸一が「2代目・三波伸介」を継ぐべきという意見が各方面から上がり、[[2009年]]の二十七回忌の日に襲名が行われることとなった。2009年[[12月8日]]、'''「二代・三波伸介」'''の襲名披露パーティーが[[東京ドームホテル]]<ref>『笑点』の収録会場である[[後楽園ホール]]の近くにある。</ref>にて執り行われた。<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/engei/TKY200912070087.html 2代目三波伸介、8日に襲名 45歳息子「思いを継ぐ」] - 朝日新聞、2009年12月7日</ref><ref>[http://www.news24.jp/entertainment/news/169335.html 27年ぶり2代目三波伸介誕生「新しい東京喜劇目指す」] - 日テレNEWS24、2009年12月8日</ref>
*自称「阿佐谷のセザンヌ」でテレビ番組「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」の似顔絵や「三波伸介の凸凹大学校」で披露するイラストなど素人ながら絵画の実力は高
=== 笑点時代でのエピソード ===
*『[[笑点]]』司会者当時、レギュラー出演者の[[桂歌丸]]と[[三遊亭小圓遊#4代目|三遊亭小圓遊]]の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]が立会人となり、[[1972年]][[8月27日]]の放送の中で実際に行われた。
* 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。豪快な外見とは裏腹に、繊細で研究熱心であり、流れをシミュレーションして収録に臨んだ。特にこだわったのは
* 現在のように司会者がオープニングで客席に座って挨拶するスタイルを最初に取り入れたのは三波である。「『笑点』の顔として、お客様の中に入り一体感を持ちたい」との考えから始めたと言われる。なお、三波の司会当時は近くに座る観客にインタビューすることも多く、観客とのやり取りが番組の名物の一つとなっていた。
* [[飛行機]]が苦手で、普段は飛行機での移動を極力避けていたが、地方収録でやむを得ず飛行機を利用した際には、恐怖のあまり隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗したときには「飛行機が揺れるたびに僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
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