削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
→‎概要: 問題点の指摘
7行目:
二諦の説は、特に[[部派仏教]]から[[大乗仏教]]において重視された<ref name="ib787" />。
 
[[論]]([[アビダルマ]])のひとつである『[[阿毘達磨大毘婆沙論]]』には<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%A4%A7%E6%AF%98%E5%A9%86%E6%B2%99%E8%AB%96&mode=search&uarnums%5B1545_27%5D=1545_27 阿毘達磨大毘婆沙論(毘曇部-阿毘達磨大毘婆沙論)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>、二諦を解釈する際に必須となる世俗諦と勝義諦の解釈が、すでにいくつかあることが記されている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨大毘婆沙論 (五百大阿羅漢造 玄奘譯) 』 (T1545_.27.0399c08: ~): 餘契經中説有二諦。一世俗諦。二勝義諦。問世俗勝義二諦云何。有作是説。於四諦中前二諦是世俗諦。男女行住及瓶衣等。世間現見諸世俗事。皆入苦集二諦中故後二諦是勝義諦。諸出世間眞實功徳。皆入滅道二諦中故。復有説者。於四諦中前三諦是世俗諦。苦集諦中有世俗事義如前説。佛説滅諦如城如宮或如彼岸。諸如是等世俗施設滅諦中有。是故滅諦亦名世俗。唯一道諦是勝義諦。世俗施設此中無故。或有説者。四諦皆是世俗諦攝。</ref>。別途、部派仏教の説一切有部では存在(有)を勝義有({{lang|sa|Paramārtha-sat}})と世俗有({{lang|sa|Saṃvṛti-sat}})とに区別し、これを二諦とよぶとする研究論文があるが{{refnest|name="平川彰1953"|平川彰『[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33118 説一切有部の認識論]』、北海道大學文學部紀要 巻2、1953年、p.5}}、{{疑問点範囲|説一切有部の論は「世俗諦・勝義諦」<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%96%E4%BF%97%E8%AB%A6+%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E8%AB%A6&mode=search&uarnums%5B1545_27%5D=1545_27 世俗諦・勝義諦 (毘曇部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref> と「世俗有 勝義有」<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%96%E4%BF%97%E6%9C%89+%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E6%9C%89&mode=search&uarnums%5B1545_27%5D=1545_27 世俗有 勝義有 (毘曇部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>を使い分けている。|date=2017年6月6日 (火) 22:49 (UTC)|title=この部分にある2つの脚注が示す外部リンクに表示される阿毘達磨大毘婆沙論の原文をどう読んだら「使い分けている」という解釈が可能なのかについて全く説明がないうえ、たとえそれを説明しても二次・三次資料無しで解釈を創出したなら独自研究である。なお、この脚注が示す外部リンクはいずれも阿毘達磨大毘婆沙論なのだが、「説一切有部の論」とされるものは阿毘達磨大毘婆沙論のみでないとしたら、ここで「説一切有部の論は使い分けている」と総称するのは不適当だろう。}}{{要高次出典|date=2017年6月6日 (火) 22:49 (UTC)}}
 
{{要出典範囲|世俗諦と勝義諦をとらない二諦説を含めて、|date=2017年6月6日 (火) 09:22 (UTC)|title=出典となっている総合仏教大辞典p.1097-1100、特に吉蔵について言及しているp.1098の④には、このようなことは書かれていない。ここは出典が無いと思われる。}}[[三論宗]]の[[吉蔵]]は二諦には古来から十四の異説があるとしている<ref name="sb1097-1100" />。