「イリヤース・ホージャ」の版間の差分

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[[1365年]]に[[チナズ]]・[[タシュケント]]の間で起きた[[泥濘の戦い]]で、イリヤース・ホージャはティムールとフサインの連合軍に勝利した。勝利後にモグーリスタン軍はサマルカンドに向かうと、サマルカンド城内で反モンゴルを掲げる「[[サルバダール運動]]」を行う集団が住民に抵抗を呼びかけた。当時のサマルカンドには防壁と内城は無く、守備兵も退却しており、イリヤース・ホージャたちは容易にサマルカンドを攻略できると考えていた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、95,97頁</ref>。しかし、抵抗を受けずにサマルカンド奥深くに入ったモグーリスタン軍は、サルバダールに率いられた住民からの奇襲で損害を受けて城内から脱出した。さらに疫病によって軍馬の多くを失い、イリヤース・ホージャは戦果を得ることなく中央アジアから退却しなければならなかった<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、97頁</ref>。
 
逃走中のイリヤース・ホージャはモグーリスタンとの国境部に至ったところで{{仮リンク|[[グラト|en|Dughlats|label=グラト部}}]]の[[カマルッディーン]]によって殺害され<ref>ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、17頁</ref>、彼の死後カマルッディーンはハンを僭称した<ref>川口「ティムールとトクタミシュ―トクタミシュ軍のマー・ワラー・アンナフル侵攻とその影響」『北海道武蔵女子短期大学紀要』40、140頁</ref>。
 
== 脚注 ==