「日本橋本町」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[江戸時代]]には'''江戸本町'''の名称で、[[江戸]]を代表する町として名高い場所であった。[[徳川家康]]の江戸入府以前には、福田村ともまた洲崎とも呼ばれていたという。そののち[[1590年]]([[天正]]18年)に町地として開発されて以降、[[寛永]]の頃にはすでに京・大坂より大店が進出し商業地域として大いに発展を遂げた。本町という町名は、江戸の中ではじめに造られたおおもとの町という意味である。一丁目から四丁目まであり、江戸時代には薬種問屋や呉服屋をはじめとして色々な種類の商店が多く集まった。戯作者の[[式亭三馬]]は当時の本町二丁目に住んでいて本町庵と号し、戯作を書くかたわら商売を営んでいた。[[瀬川如皐 (3代目)|三代目瀬川如皐]]も本町四丁目の出身である。江戸城内から、[[常盤橋 (日本橋川)|常盤橋]]、日本橋本町を通り、浅草橋(から浅草)に至る「本町筋」は江戸時代から明治初年まで、江戸=東京の[[目抜き通り]]であった(後にその座は直交する京橋-万世橋間の日本橋大通りに移っていく)。
 
[[1932年]]([[昭和]]7年)、[[関東大震災]]後の区画整理により、本町は近隣の[[日本橋本石町|本石町]]と同様に町域を変更することになり、周辺の伊勢町、岩附町、大伝馬町、鉄砲町、本小田原町、本石町、本船町などの全部または一部を合併し、現在の本町一丁目から四丁目となっている。