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'''当摩 国見'''(たいま /たぎま の くにみ、[[生没年不詳]])は、日本の[[飛鳥時代]]の人物。[[氏]]は'''当麻 国見'''とも書く記される。[[カバネ|姓]]は公のち[[真人]]。系譜ははっきりしないが、[[用明天皇]]皇子である[[当麻皇子|麻呂子皇子]]の孫で、[[当麻豊浜|当摩豊浜]]の子とする系図がある<ref>宝賀寿男鈴木真年古代氏族百家譜集成図稿古代氏族研究会、1986年巻9,登美真人</ref>。[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|冠位]]は直大壱
 
[[壬申の乱]]の功臣で、[[天武天皇|天武]]・[[持統天皇|持統]]・[[文武天皇|文武]]の三代の天皇に仕えた。また、[[当麻寺]]([[奈良県]][[葛城市]])の開山に携わったと伝えられる。
 
== 経歴 ==
[[天武天皇]]元年([[672年]])の[[壬申の乱時の]]における国見の行動は『[[日本書紀]]』に見えないが、[[続日本紀持統天皇|持統]]』の大宝元年([[701年]])7月21日条は、かつおいて功臣として100戸の[[封戸]]を与えられたことが記されており<ref>『[[続日本紀]]』大宝元年7月21日条</ref>天武大海人皇子方で何らかの活躍をしたことが分かる。天武天皇13年([[684年]])10月に[[八色の姓]]が制定された際この際に当麻公姓を改め当麻真人姓を賜与された。
 
[[朱鳥]]元年([[686年]])9月27日、天武天皇の[[葬儀]]に際して、[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|直大参]]の位にあった当摩国見は[[近衛兵#令制の五衛府|左右兵衛]]の事を誅した<ref>『日本書紀』朱鳥元年9月27日条</ref>。これにより、天武朝で軍事に関わっていたことがわかる。[[持統天皇]]10年([[696年]])2月28日、直広壱の位であった国見は[[東宮傅|東宮大傅]]に任じられたが、下僚として[[路跡見]]が[[春宮坊|春宮大夫]]、[[巨勢粟持]]が[[春宮坊|春宮亮]]に任じられている。東宮大傅は皇太子の教育職で、この場合、軽皇子(後の[[文武天皇]])のための人事である。軽皇子は[[文武天皇]]元年([[697年]])8月1日にの軽皇子が[[即位]]したため、この時<ref>『続日本紀』文武天皇元年8月1日条</ref>、国見の東宮大傅の任も解かれたと思われる。
 
文武天皇3年([[699年]])10月20日、[[衣縫王]]・当麻国見・[[土師根麻呂]]・[[田中法麻呂]]が、[[判官]]4人・主典2人・大工2人を引きつれ、[[皇極天皇#陵・霊廟|越智山陵]]を修造するために派遣された。国見の位はこのとき直大壱であった。その後の活動は見えない。
 
== 年譜官歴 ==
*[[天武天皇]]13年([[672684年]])、[[壬申の乱]]にて大海 10月1日:当麻公から当麻真皇子方付いて有功。改姓
*[[朱鳥]]元年([[686年]])9) 9月27日、天武天皇の葬儀で誅する。時に:見直大参
*天武天皇13年([[684年]])10月1日、当麻公を改め当麻真人の姓を与えられた。
*[[持統天皇]]10年([[696年]]) 2月28日:[[春宮坊|東宮大傅]]、見直広壱
*朱鳥元年([[686年]])9月27日、天武天皇の葬儀で誅する。時に直大参
*[[持統文武天皇]]10年([[696697年]])2) 8281:停東宮大傅になった。時に直広壱
*[[文武天皇]]3年([[699年]])10) 10月20日、越智山陵を修造するために遣わされる。時に:見直大壱
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
*[[宇治谷孟]]『日本書紀 (下)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1988年
*宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
*[[宝賀寿男]]『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
 
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[[Category:壬申の乱]]
[[Category:飛鳥時代の人物]]
[[Category:生没年不詳当麻氏|くにみ]]
[[Category:7世紀生]]