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'''荻原重秀'''(おぎわらしげひで、[[万治]]元年([[1658年]]) - [[正徳]]3年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]([[1713年]][[11月13日]]))は、[[江戸幕府]]の[[勘定奉行]]。元禄時代に貨幣改鋳をおこない、インフレ経済をもたらしたことで有名。通称[[旗本]]の荻原種重彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。別称は彦次郎、五左衛門。なお間違えられやすいことだが、姓は「'''荻原(おぎわら)'''」であって「'''萩原(はぎわら)'''」ではない。
 
==経歴==
[[江戸]]に生まれる。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家家祖常陸介昌勝が武田家より分家して甲斐国荻原村に移り住んだため。[[1674年]]に勘定方に就任。その後、勘定組頭・勘定頭差添役を経て、[[1696年]]に勘定頭(勘定奉行)に就き、知行2000石を賜る。耕地面積の限界により年貢徴収の増加が無くなったことや、[[明暦の大火]]後の江戸の復興費等によって幕府の財政が窮迫したため、貨幣改鋳を行なって金含有率を格段に減らした[[元禄小判]]を発行し、幕府財政を安定させる。しかし同時に、貨幣の質を落としたことによる物価急騰([[インフレ]])も引き起こし、旗本や御家人の生活を圧迫することとなる。
旗本荻原十郎種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家家祖常陸介昌勝が武田家より分家して甲斐国荻原村に移り住んだためであう。荻原家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継ぎ、重秀は別家を興した。
 
[[延宝]]2年([[1674年]])10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍[[徳川家綱]]にはじめて謁見。[[延宝]]3年([[1675年]])12月21日、切米150俵を支給された。[[延宝]]7年([[1679年]])12月3日、先の近江検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。[[天和]]元年([[1681年]])に[[上野国]] [[沼田藩]]主[[真田信澄|真田伊賀守信澄]]が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために[[沼田藩]]へ赴いた。[[天和]]3年([[1683年]])10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。
その後も幕府財政を支配し、手柄により知行石高は3700石に達する。しかしその権力を利用して無役の所に運上を掛けたり、賄賂を受け取るなど評判は悪かった。5代将軍[[徳川綱吉]]死後も、次の将軍[[徳川家宣|家宣]]の元で[[新井白石]]について勘定奉行を続ける。しかし[[1712年]]、家宣の病没直前、白石の弾劾により勘定奉行の職を罷免され、[[寄合]]となる。
 
[[貞享]]4年([[1687年]])9月10日、勘定頭三名の罷免により勘定頭差添役(のちの[[勘定吟味役]])に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。[[元禄]]2年([[1689年]])8月21日、200石加増(都合750石)。[[元禄]]3年([[1690年]])10月7日には[[佐渡奉行]]を通じておこなっていた佐渡の支配を直接任せられた。
その翌年の[[1713年]]、56歳で没する。絶食して自害したとも言われる。法名は日秀居士。墓所は[[東京都]][[墨田区]]向島の[[長命寺]]。
 
[[元禄]]8年([[1695年]])12月22日、1000石の加増(都合1750石)。9年(1696年)4月11日、[[勘定奉行]]に就任し、250石を加増(2000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。[[元禄]]11年([[1698年]])12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2500石)、[[元禄]]12年([[1699年]])1月には長崎へ赴いている。[[元禄]]16年([[1703年]])2月にも[[稲垣重富]]の副使として[[京都]]・[[大阪]]・[[長崎]]などへ赴いている。[[宝永]]2年([[1707年]])12月11日に700石加増される(都合3200石)。
 
[[宝永]]4年([[1709年]])に[[徳川綱吉]]が死去し、[[徳川家宣]]が六代将軍となると、[[新井白石]]などの家宣近臣たちとの関係が悪くなり、[[宝永]]7年([[1712年]])4月25日には将軍徳川家宣への拝謁を禁止されているが、家宣との関係が悪かったわけではなく、[[新井白石]]の陰謀であったようで、直後の29日には撤回されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3700石を領した。さらに[[正徳]]元年([[1711年]])7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。
 
しかし[[新井白石]]の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、病没寸前の家宣はついに折れ、[[正徳]]2年([[1712年]])に起こった銀座商人摘発事件を機に、9月11日に[[勘定奉行]]を罷免されて[[寄合]]とされた。その後、領地を召し上げられ、入牢させられている。子の荻原乗秀には辛うじて[[越前国]][[坂井郡]]で700石の相続が許された。[[正徳]]3年([[1713年]])9月26日に獄死。絶食して自害したとも言われる。[[東京都]][[墨田区]]向島の[[長命寺]]に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。
 
==その財政政策==
将軍[[徳川綱吉]]時代の経済政策を一手に任された荻原重秀は、元禄8年(1695年)、それまでの慶長金銀の貨幣改鋳を断行し、金含有率を格段に減らした[[元禄金銀]]を作ったことで有名。役500万両の改鋳差益金で幕府財政をある程度持ち直したが、このために経済は混乱し、未曾有の物価急騰([[インフレ]])となったことは良く知られている。また[[長崎貿易]]にも代替物を増額して運上金を徴収し、全国の酒造家にも50%の運上銀をかけるなど一貫して幕府歳入の増加に努めた。
 
[[新井白石]]の悪宣伝もあって、とかくインフレ経済の責任者として悪評が高い荻原重秀だが、この改鋳の背景には、元禄期に急速に経済発展したためにこの経済に見合うだけの貨幣数量が必要であったこと、貿易で大量の金銀が外国に流出していたこと、金銀産出量がこの時代に急速に減ったこと、将軍[[徳川綱吉]]とその生母[[桂昌院]]の散財があまりに激しかったために幕府の金蔵は空になっていたこと、金銀両通貨圏のバランスを取り戻すために両通貨の品位を調整しなければならなかったこと、などへの対策であるという側面を見逃してはならない。
 
[[Category:江戸幕府旗本|おきわらしけひて]]
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