「平清盛」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
36行目:
若い頃は、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・[[池禅尼]]の従兄弟だった。[[高階基章]]の娘との間に[[平重盛|重盛]]・[[平基盛|基盛]]が生まれるが、死別したと推測される。[[保延]]3年([[1137年]])忠盛が[[熊野本宮大社|熊野本宮]]を造営した功により、清盛は[[肥後国|肥後]][[国司|守]]に任じられる。[[久安]]3年([[1147年]])、[[継室]]に迎えた[[平時子]]との間に[[平宗盛|宗盛]]が生まれる。時子の父・[[平時信]]は鳥羽法皇の判官代として、[[藤原顕頼|葉室顕頼]]・[[信西]]とともに院庁の実務を担当していた。
 
この年6月15日、清盛は[[八坂神社|祇園社]]に赴くが、郎等の武具を[[咎めた]][[神人]]と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した([[祇園闘乱事件]])。祇園社を末社とする[[延暦寺]]は忠盛・清盛の配流を要求して[[強訴]]するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を[[贖銅]]三十[[斤]]という[[罰金刑]]にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の[[平家盛]]が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。しかし久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・[[平頼盛|頼盛]]は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、[[平経盛|経盛]]・[[平教盛|教盛]]に比べてその関係は微妙なものであり続けた。[[安芸国|安芸守]]に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の[[厳島神社]]を信仰するようになり、[[仁平]]3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁頭領となる。
 
=== 保元の乱、平治の乱 ===