「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

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(→‎脚注: 猿若町→現在の中央区)
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==来歴・人物==
安政5年(1858年)、[[片岡仁左衛門 (8代目)|八代目片岡仁左衛門]]の四男として江戸[[猿若町]]に生まれる。文久元年(1861)(1861年)、<!--3歳(此れは満年齢?戦前はみな数えで歳を言ったので、却って混乱を招くことになるかと)。 -->本名の[[片岡秀太郎]]で初舞台。翌年<!--4歳。-->父と兄・[[片岡仁左衛門 (10代目)|三代目片岡我童]]とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも<!--「[[ちんこ芝居]]」-->子供芝居で修業を続ける。
 
明治5年(1872年)ごろから<!--14歳。-->大阪[[竹田の芝居]]などに出演、その才能が認められはじめる。2年後には兄とともに東京へ戻り、明治9年(1876年)3月、[[中村座]]で三代目[[片岡我當]]襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍する。
 
明治28年(1895年)に兄が急死すると、松嶋屋の屋台骨を背負う重責を負うようになる。明治38年(1905)5(1905年)5月、大阪[[角座]]で[[坪内逍遥]]作『[[沓手鳥孤城落月]]』を初演。以後[[新歌舞伎]]に力を入れ、『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演した。
 
そして明治40年(1907年)、<!--49歳。-->大阪角座で十一代目[[片岡仁左衛門]]を襲名した。
十一代目の上京は、当時「五代目中村歌右衛門」の名跡を巡って大阪の[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]と東京の[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村芝翫]]との間に争いが起こり、仁左衛門は芝翫を支持したために、関西では飛ぶ鳥を落とすほどの人気を誇った鴈治郎の支持者に囲まれて日々が日増しに居辛くなったからだといわれている。
 
大正元年(1912年)には<!--55歳。-->長男の[[片岡仁左衛門 (13代目)|片岡千代之助]]のためにもなるからと、私財を投じて片岡少年俳優養成所を設立<ref>{{Cite book|和書|author=岡本綺堂|year=2014|title=綺堂芝居ばなし|publisher=旺文社文庫|pages=218p}}</ref>。後継者を育成し、若手俳優への芸の伝承にも尽くした。 
 
また従前[[人形浄瑠璃]]においてのみの演目だった『大文字屋』や『鰻谷』を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る独創性に長けていた。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のしのぎを削り合う相手として張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台を共にし、公私にわたって仲が良かったと書いている。
 
==芸風==
当り役は、丸本時代物では、『[[仮名手本忠臣蔵]]』九段目の本蔵、『[[菅原伝授手習鑑]]』「道明寺」の菅丞相と「寺子屋」の松王丸、『[[妹背山婦女庭訓]]』の大判事、『[[一谷嫩軍記]]』「熊谷陣屋」の弥陀六、『[[伊賀越道中双六]]』沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『[[桐一葉]]』の[[片桐且元]]、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。『[[伽羅先代萩]]』の政岡も当たり役だった。
 
どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優だった。[[三宅周太郎]]の『片岡仁左衛門』の中に、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]のことばとして、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ」と記されている。[[岡本綺堂]]は『妹背山』の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた」(大正6年3月)と絶賛している。
 
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[[Category:歌舞伎役者]]