「クロード=アドリアン・エルヴェシウス」の版間の差分

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イエズス会経営の学校で学び<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9-37813 コトバンク<エルベシウス>](出典元|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 )</ref>、1738年、23歳の時に王妃の引き立てで徴税請負人となり、1751年まで務めた<ref name="el" />。結婚後、王妃の司厨長の地位を購入し、冬場を除く一年の大半をパリ市内にある自分の領地で学問研究に没頭しつつ、領地住民のためには靴下工場を作った<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9-37813 コトバンク<エルベシウス>](出典元|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト)</ref>。徴税請負人の時代に詩作を始めて[[ヴォルテール]]の指導を受けていたが、徐々に哲学へ関心を移していった<ref>{{Cite journal|和書|author=森村敏己|date=1990-8|title=エルヴェシウスにおける奢侈論の形成|journal=一橋論叢|volume=104|issue=2|page=148|publisher=日本評論社|issn=00182818|naid=|format=http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/11021/1/ronso1040200570.pdf|accessdate=<small>2015-8-19</small>|ref= }}</ref>。
 
最初の著作『精神論』は、国王の出版許可を得て1758年7月に刊行されたが、その直後にカトリック陣営から強い批判があり、同年8月出版許可が取り消され、公けに販売することができなくなった。しかしこの問題はその後さらに拡大し、11月、パリ大司教ボーモンによって弾劾され、翌年1月、刊行中の『百科全書』などとともにパリ高等法院に告発された。判決は、告発された書籍の内容に応じて出され、『精神論』は2月に焚書処分の裁定を受けた。この間、エルヴェシウスは自己批判の撤回を数度公開した
 
同5月には、パリ大学神学部からも断罪されている。一方、の騒動のあおりを受けて、『百科全書』刊行を続けることができなくなった。『精神論』出版許可取消に始まる一連の出来事は、「精神論事件」として知られている。年にはっパリ大学神学部からも断罪されて
 
その後まったく同じ思想のもとに『人間論』を書いたが、刊行しなかった<ref>詳細は[http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/interdit-esprit.htm <エルヴェシウス『精神論』の発禁事件]</ref>。