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登米 (会話 | 投稿記録)
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《技術》が科学と接近したのは、あくまで1870年代以降の話であって、その年代ころから欧米の先進国で、([[富国強兵]]主義、殖産興業主義が世界中に広まってしまい、各国がさかんに軍備を競い他国を侵略し戦争犠牲者を多数うみだしていた問題だらけの時代に)政府が軍備拡張や産業振興のために自前で研究所を設置するようになったり、また(それ以前には皆無だった)“[[大企業]]”がこの世に登場し、それが物理学者や化学者を雇用するようになってからの話なのである<ref name="yahoo_hyakka" />。
 
西欧文化圏に属する人々は、西欧における長い《技術》の歴史も、西欧における長い《知識》([[哲学|フィロソフィア]]や[[科学|サイエンス]])の歴史も、それぞれ別によく理解しており、別の概念として把握できている。だが、日本などの東アジアの人々には、ちょっとした歴史のめぐり合わせが原因で、それらの区別が困難になってしまった。日本などの東アジア諸国に西欧の近代科学が体系的な形で紹介されたのは19世紀後半になってからのことであったのだが、この19世紀後半は、たまたま運悪く(上述のごとく)ヨーロッパやアメリカでさかんに科学と技術を接近させ融合させようとしていた時期に合致し、東アジア諸国の人々は、そのように《技術》と《科学》一緒くたにされてしまった状態で、初めてそれらに出会い、それらを急いで導入しようとした結果、《技術》と《科学》の区別がうまくつけられなくなり、うまく識別できなくなってしまったことを、科学史や科学哲学を専門とする[[佐々木力]]も指摘している<ref>{{cite book|和書|author=佐々木力 |title=科学論入門 |publisher=[[岩波書店]] |date=1996年、p. |page=20 }}</ref>。
 
中国や日本では「技術」という言葉は古くから登場していたが、今とは意味が異なっており、江戸中期には当時の知識人が身に着けておくべき教養(マナー、弓術、馬術、音楽、文字、算数など)を意味していたことが文献からうかがえる。明治3年(1870年)に[[西周]]がMechanical artの訳としては「技術」を使い、これが現在の意味での技術の最初の例であると考えられている。明治4年に欧米の技術を取り入れる工部省という役所が公文書で同様の意味で技術を使い、明治16年には[[福沢諭吉]]が論説の中で技術という言葉を多く使用した。科学、技術が現在の意味で使われるようになった当初、科学技術という言葉は用いられず、大淀昇一によると、使われるようになったのは[[日中戦争]]が泥沼化していた昭和15年ごろである。当時の技術官僚の間で使われるようになったもので、「技術は科学に基づいていなければならないという課題と、また科学は純学術的なものでもなく、また人文科学でもなく技術への応用を目指したものでなければならぬという課題、この二つの課題をまとめて「科学技術」という」という当時の技術官僚の発言が残されている。昭和15年に有力技術者団体が政府に提出した意見書で、「科学技術」は「科学および技術」の意味で使われた。昭和15年時点では「科学乃技術」の方が一般的だったが、緊迫した戦時下の状況で科学技術を振興しようという機運が高まって急速に普及し、昭和16年には広く受け入れられたと考えられている。平野千博は、「科学技術」普及の背景には、「科学技術の振興により国家に貢献しようという技術官僚の運動があったことがうかがわれる」と述べている。<ref>{{cite journal|和書|author=平野千博 [|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/42/5/42_5_371/_pdf |title=「科学技術」の語源と語感] |journal=情報管理 |volume=42 |date=1999年8月 |format=PDF }}</ref>
 
日本では、(上述のように)科学と技術が融合したような独特の状態を区別する時は「[[科学技術]]」と表現されるようになった。欧米でアメリカの[[ジャクソニアン・デモクラシー]]時代から「[[:en:technology]]」という言葉が人々に普及するようになり<ref name="yahoo_hyakka" />、日本人が「科学技術」と表現するような概念を表現するのにも用いられるようになった。([[テクノロジー]]については別記事で解説する)