「小野寺秀和」の版間の差分

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赤穂城明け渡し後は京都に戻り、大石内蔵助ら同志と密議をこらした。仇討ち決定後の元禄15年([[1702年]])9月、十内は[[瀬尾孫左衛門]]とともに江戸へ下り、仙北十庵を名乗って大石内蔵助の嫡男[[大石主税]]や養子幸右衛門と同居している。
 
12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して[[吉田忠左衛門]]、[[間喜兵衛]]とともに裏門隊大将大石主税の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、忠左衛門とともにこれにあたり、十内は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の[[土屋逵直|土屋主税]]邸で家士が騒いでいるので、十内は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。十内はその後、二人の敵を倒している。
 
討ち入り後は大石内蔵助らとともに[[細川綱利|細川越中守]]屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年([[1703年]])2月4日、幕府の命により切腹。享年61。
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