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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|2014年|ノーベル物理学賞|高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明}}
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'''中村 修二'''('''Shuji NAKAMURA'''、なかむら しゅうじ、[[1954年]]([[昭和]]29年)[[5月22日]] - )は、[[日本]]出身の[[アメリカ人]][[技術者]]、[[電子工学]]{{R|日経20141007|四国20141008}}{{Efn|name=nationality}}。[[学位]]は[[博士(工学)]]([[徳島大学]]、1994年){{Sfn|中村|1994}}。2014年度[[ノーベル物理学賞]]受賞者{{R|時事20141007}}。
 
[[日亜化学工業]]在籍時に、世界に先駆けて実用に供するレベルの[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|高輝度青色発光ダイオード]]を発明・開発。同社の青色LED製品化に貢献するとともに、[[赤崎勇]]・[[天野浩]]と共同で[[2014年]]に[[ノーベル物理学賞]]を受賞する{{R|時事20141007}}{{Efn|name=nobel2014}}。また

同社の青色LED製品化に貢献するとともに、同技術社と、[[トレードシークレット]]漏洩の疑い、特許対価を求めた[[404特許]]の訴訟でも有名である。
 
[[2000年]]に[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]] (UCSB) 材料物性工学科{{R|erato_report|nikkei_science}}[[教授]]に就任。同大学固体照明・エネルギー電子工学センターディレクター{{Efn|Solid State Lighting & Energy Electronics Center:SSLEEC。}}を務め、[[2007年]]には世界初となる無極性青紫半導体[[レーザー]]の開発に成功している。
 
また、[[科学技術振興機構]]のERATO中村不均一結晶プロジェクトの研究統括として、[[東京理科大学]]の[[窒化物半導体]]による[[光触媒]]デバイスの開発にも貢献し、[[高知工科大学]]、[[信州大学]]、[[愛媛大学]]、[[東京農工大学]][[客員教授]]を歴任。
 
[[学位]]は[[博士(工学)]]([[徳島大学]]、1994年){{Sfn|中村|1994}}。
 
== 来歴 ==
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=== 大学時代 ===
大学進学にあたり中村は理論物理や数学を志していたが、教師の就職を考慮した助言と改めて思考し直したのちにより[[工学部]]を選択{{Sfn|畠山|2014|pp=173-174}}。[[徳島大学]][[工学部]][[電子工学科]]へ進学する。下宿で専門書を読み耽るとともに、[[哲学]]の思索にも時間を割く{{Sfn|武田先端知|2006|p=1}}{{Sfn|畠山|2014|p=182}}。また、3年生の時に後に妻となる教育学部の同級生の女性と出会い、交際を始めている{{Sfn|畠山|2014|pp=189-193}}。
 
3年生では当時助教授であった福井萬壽夫の固体物性の授業に面白さを感じ、中村は材料物性に興味を持つ{{Sfn|畠山|2014|p=186}}。卒業研究では同分野の教授である多田修の研究室に所属し、実験装置の手作りを重視するスタイルを学ぶとともに、[[溶接]]や[[旋盤]]作業も経験する{{Sfn|武田先端知|2006|p=2}}{{R|shikoku_tada}}{{Sfn|畠山|2014|pp=186-188}}。
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中村はまた社長に留学を直談判し<ref name=nhk_jiji/>、1988年4月から1年間の予定で、[[アメリカ合衆国]]の[[フロリダ大学]]へ留学する。[[有機金属気相成長法|MOCVD]] を勉強するための中村の希望であったが、日亜化学としては元々、[[徳島大学]][[助教授]]酒井士郎の勧めで、フロリダ大学へ誰か社員を派遣する計画であった{{Sfn|テーミス編集部|2004|pp=80-81}}{{Sfn|日経サイエンス|2014|p=21}}。中村は修士修了で博士号を持っていなかったため、留学先で研究者として見てもらえず悔しい思いをしており、「コンチクショー」と博士号取得や論文執筆への意欲を新たにした{{Sfn|中村|2004a|pp=122-127}}。
 
1年間の留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かる。なお、2014年に中村修二への[[ノーベル物理学賞]]授与が発表されたとき、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている{{R|読売20141008}}。
 
当時の応用物理学会、研究会などでは[[セレン]]系に注目が集まっていた一方、ガリウム系の研究会は人数も少なかった。しかし中村は「あれだけ優秀な人たちが取り組んでもうまくいかないならば、むしろ終わったとされる分野に挑んだ方が良い」ということで、ガリウムに着目。その後、青色発光素子であるGaN([[窒化ガリウム]])の結晶を作製する[[ツーフローMOCVD]]を発明し、窒化ガリウムによる高輝度青色発光ダイオードの開発に参加した。
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中村は管理職として研究の現場から離れつつあり{{Sfn|中村|2004a|p=204-209}}、LED関係の開発に目途が立ち、研究テーマの観点からも日亜でやることがなくなりつつあった{{Sfn|仲森|2000|}}。中村はアメリカの企業や大学から多くのオファーを受け、「スレイブ・ナカムラでは耐えられない」という思いもあり、娘からの「もったいない」という言葉がきっかけで転身を決意{{Sfn|中村|2004a|p=216-218}}。
 
[[1999年]]12月27日に日亜化学を退社。[[2000年]]2月に、半導体関係に強くスティーブン・デンバース教授が誘ってくれた{{Sfn|中村|2004a|p=216-217}}、[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]](UCSB) (UCSB) ・材料物性工学科{{R|erato_report|nikkei_science}}[[教授]]に就任する{{Sfn|武田先端知|2006|p=13}}{{Sfn|仲森|2000}}。
 
=== 日亜化学工業との訴訟 ===
[[2000年]]12月にアメリカ・ノースカロライナ州東部地区連邦地方裁判所において、[[日亜化学工業]]は[[トレードシークレット]](営業秘密)漏洩<!--とコンピューター詐欺-->の疑いで中村を提訴した{{Sfn|テーミス編集部|2004|p=31-32}}{{Sfn|中村|2004b|p=185-187}}。裁判終結までの間、中村は米国訴訟におけるディスカバリー制度の対応のため、情報提供や反論の準備にかなりの時間を取られ、研究に支障が生じた{{R|日経BPnet2002}}。
 
その後[[2001年]]8月23日に、中村が日亜化学工業を提訴{{R|2001-wa-17772|日経BPnet2001}}。中村は、日亜化学工業に対してツーフローMOCVD(通称[[404特許]]と呼ばれる)の特許権譲渡および特許の対価の増額を求めて争った(通称「中村裁判」(青色LED訴訟)、詳細は[[404特許]]を参照){{Sfn|武田先端知|2006|p=13-14}}{{R|jcast20141008}}。中村は、「サンタバーバラの自宅や大学の研究室を調べられ、心身ともに疲弊した。裁判を通して続けられる日亜化学の執拗な攻撃をやめさせるために、日本で裁判を起こした」と言う{{R|日経BPnet2002}}。