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=== 入幕~大関へ ===
戦後最初の場所となった[[1945年]]11月場所で十両4枚目格で番付に復帰。当時復員力士については番付復帰後一場所は休場しても地位を据え置く救済措置が取られていたが、これを受けずに出場、6勝4敗と勝ち越す。翌[[1946年]]11月場所は東十両筆頭の地位に進み、相手力士負傷による[[痛み分け]]があって6勝6敗1分、そのままの地位に据え置きかと思われたが、幕内で[[横綱]][[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]はじめ4力士が引退した事情などが幸いし、翌[[1947年]]6月場所で新入幕を果たす。入幕時の体重は僅か75kgしかなかった<ref name="100retsu"/><ref name="waza2">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28</ref>。この場所は4勝6敗と負け越したが、このときはまだ[[東西制]]が実施されており、翌場所の陥落を免れた<ref>翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、これは強運だった。</ref>。この後、幕内に定着する。
 
入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗、10勝1敗で優勝の横綱[[羽黒山政司|羽黒山]]に次ぐ星をあげる。[[三賞]]制度の始まった場所であり、当人も「なにかもらえるかと思った」というが、新入幕(西11枚目)で同じ9勝の[[出羽錦忠雄|出羽錦]]に殊勲賞<ref>現在の三賞の基準に照らすと敢闘賞がふさわしいが、同場所新小結で1横綱3大関を倒し7勝4敗の[[輝昇勝彦|輝昇]]に敢闘賞が贈られるなど、当時はまだ各賞の性格が定まっていなかった。</ref>が贈られ、栃錦にはなにもなかった。のちに彼の独占するところとなる技能賞を初受賞するのは3場所後、[[1949年]]1月場所でのことになる。この1月場所では優勝候補のひとりであった大関・佐賀ノ花に立合いで思い切り当たり、とっさに前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って破ったことが評価され、これが技能賞受賞の理由となった<ref name="100retsu"/>。
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年寄・春日野としては「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては[[1969年]]3月場所2日目、[[羽黒岩智一|戸田智次郎]] - [[大鵬幸喜]]戦<ref>[[木村庄之助 (26代)|式守伊之助]]と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利・大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。相撲判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。</ref>、[[1972年]]1月場所8日目の[[貴ノ花利彰|貴ノ花満]] - [[北の富士勝昭]]戦<ref>北の富士の[[つき手]]か[[かばい手]]かを巡って大物言いとなる。[[木村庄之助 (25代)|木村庄之助]]は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「かばい手」=貴ノ花は[[死に体]]と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。</ref>といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。
 
[[1974年]]には[[出羽ノ花國市|武蔵川]]から日本相撲協会理事長職を継ぐ<ref name="waza2"/>。{{要出典範囲|この時、武蔵川の娘婿である[[佐田の山晋松|出羽海]]が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。|date=2013年5月}}しかし理事長となってからは、
# 新しい[[両国国技館]]への移転
# 国技館を無借金で建設する(理事長就任時、武蔵川から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている)
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== 人物 ==
[[File:Tochinishiki VS Wakasegawa 1954-3b-05 Scan10002.JPG|thumb|right|1954年春場所5日目、[[若瀬川泰二]]を[[上手出し投げ]]で破る栃錦]]
入門直後は兄弟子の栃ノ峯などから押し相撲を教わった<ref name="waza">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK) p17</ref>が、取的時代に春日野の付き人になってからは春日野の燗番をしている時に廻しの切り方や四十八手の難しそうな技を手取り足取り教わり、これがのちの技巧につながった<ref name="100retsu"/>。中でも出し投げの技術は弟子たちにも伝えられた<ref name="waza"/>。平幕から三役にかけては、「相撲の技は全て使った」と言われる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを'''技の展覧会'''と評されたりもした)。現在でも反り技など滅多に出ないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞する<ref name="waza2"/>など、「[[三賞|技能賞]]は栃錦のためにある」とまで言われた。その一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。この頃のような相撲を取れた背景には新弟子時代に押し相撲を仕込まれたことがある<ref name="waza"/>。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。
 
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、[[新弟子検査]]の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
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*大塚 清(おおつか きよたか):1939年1月場所-1944年1月場所
*栃錦 清隆(とちにしき きよたか):1944年5月場所-1960年5月場所
 
== 参考文献 ==
* ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)
 
== 脚注 ==