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'''鉾田陸軍飛行学校'''(ほこたりくぐんひこうがっこう)は、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[軍学校]]のひとつ。主として軽爆撃機あるいは襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。[[1940年]]([[昭和]]15年)12月、[[静岡県]]の[[浜松陸軍飛行学校]]内に開設され、[[1941年]](昭和16年)1月、[[茨城県]]に移転した。学校本部および本校は茨城県[[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]](現在の[[鉾田市]])に置かれ、[[福島県]][[相馬郡]](現在の[[南相馬市]])に原ノ町分教所があった。
 
[[1944年]](昭和19年)6月、鉾田陸軍飛行学校は改編され'''鉾田教導飛行師団'''となり、さらに[[1945年]]7月、鉾田教導飛行師団は'''教導飛行師団 第3教導飛行隊'''と第26飛行団司令部に分離改編された。同年8月、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終戦により教導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部はともに解体された。ここでは鉾田教導飛行師団等についても述べる。 
 
== 沿革 ==
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学生の居住は甲種、乙種とも校外と定められていた。
 
鉾田陸軍飛行学校の設立に先立つ1940年9月、陸軍はそれまでの「歩兵科」「砲兵科」「航空兵科」といった兵科区分を、憲兵を除き単一の「兵科」として、新たに兵種を区分としていた<ref group="*">鉾田陸軍飛行学校令の制定は、それより前の7月であった。</ref>。これに対応して翌[[1941年]](昭和16年)6月、鉾田陸軍飛行学校令が改正された(軍令陸第12号)<ref>軍令 陸第12号。[{{NDLDC|2960825/2}} 『官報』第4327号、1941年6月12日]</ref>。同令改正では学生の「航空兵科」という条件が「航空関係ノ兵科」に修正された。さらに従来まで尉官のみであった乙種学生を尉官および[[見習士官]]にあらため、修学期間約4か月を約6か月に延長し校内に居住させ教育の充実を図った。甲種学生の修学期間と校外居住には変更がなかった。[[File:Kawasaki Ki-48-42.jpg||250px|thumb|太平洋戦争の全期間を通じて使用された九九式双発軽爆撃機]]
 
[[1941年]](昭和16年)12月、日本と米英など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間で[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が開戦した。従来の[[支那事変]]や[[ノモンハン事件]]における地上での戦闘に加えて、陸軍の航空爆撃も洋上における艦船攻撃に関する研究の重要性が[[1942年]](昭和17年)ごろより一部で注目されたが、陸軍中央の反応は鈍かった<ref>『陸軍航空兵器の開発・生産・補給)』434-435頁</ref>。同じころ、それまで熊谷、明野等の陸軍飛行学校が分教所を置いていた福島県相馬郡[[太田村 (福島県相馬郡)|太田村]](現在の南相馬市原町区)の原ノ町陸軍飛行場<ref>{{アジア歴史資料センター|C01007769900|陸密綴昭和14年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C08030006800|昭和16年 陸(支満)密綴 第5研究所(防衛省防衛研究所)}}</ref>は鉾田陸軍飛行学校が使用することとなり、同校の分教所が置かれた<ref>{{アジア歴史資料センター|C01007813100|陸密綴昭和18年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
 
[[1943年]](昭和18年)年3)3月に[[パプアニューギニア]]のダンピール海峡で[[米軍]]が[[ビスマルク海海戦|日本の輸送船団攻撃]]に「[[反跳爆撃|跳飛爆撃]]」で大きな効果をあげると、翌年より鉾田陸軍飛行学校は新しい艦船攻撃の方法として跳飛爆撃の研究を行った<ref>秦郁彦「飛行第三戦隊は離陸せしや」</ref><ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』264,268頁</ref>。
 
===鉾田教導飛行師団===
太平洋戦争の戦況が悪化した[[1944年]](昭和19年)3月、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]では連合軍機の本土襲来に備えて、教官、助教<ref group="*">陸軍では教育を担当する将校を教官、教官を補佐する下士官を助教とした。</ref>など練度の高い要員を多く有する飛行学校と[[陸軍航空審査部]]を随時防空戦闘体制に移行させる「東二号作戦」が起案された。陸軍の学校、官衙<ref group="*">官衙(かんが)とは一般には官庁あるいは役所を意味する。陸軍の官衙は陸軍省など東京中心部に置かれたものだけでなく、各地の連隊区司令部や、陸軍病院なども含まれる。陸軍航空審査部は陸軍官衙のひとつである。『陸軍読本』58-68頁</ref>の初めての戦力化であり、士気高揚策でもあった<ref name="2go">『陸軍軍戦備』403頁</ref>。これにもとづき臨時に防空任務につく諸部隊の総称が「東二号部隊」であり、参謀総長により配置が指示された<ref name="2go"/>。鉾田陸軍飛行学校は同校が保有する数機の戦闘機を用いて[[第10飛行師団 (日本軍)|第10飛行師団]]指揮下の東二号部隊として鉾田飛行隊を編成した<ref>『本土防空作戦』246-248頁</ref>。
 
さらに同年6月、陸軍中央は飛行学校5校と1分校、および航空整備学校1校を完全に軍隊化し<ref group="*">ここでいう軍隊とは、陸軍全体を「軍隊」「官衙」「学校」「特務機関」の4つに類別した場合のひとつ。司令部を含めた師団等や部隊の総称と考えてよい。『陸軍読本』52頁</ref>、航空総監隷下で教育と作戦行動を常時並行して行わせることとした。下志津教導飛行師団等臨時編成要領(軍令陸乙第29号)により鉾田陸軍飛行学校は閉鎖され、'''鉾田教導飛行師団'''に改編された<ref>{{アジア歴史資料センター|C14010700300|下志津教導飛行師団等 臨時編成要領 同細則 昭19.6.13(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>『陸軍軍戦備』428頁</ref><ref>『本土防空作戦』316-317頁</ref>。鉾田教導飛行師団の編制は師団司令部、2個教導飛行隊、1個教導整備隊、通信隊、教育隊と学生であり、鉾田、原ノ町の各陸軍飛行場に分散展開した<ref>『本土防空作戦』317-326頁</ref>。同年8月には航空総監部の兼任による'''教導航空軍'''司令部が編成され、各教導飛行師団を指揮した<ref>『本土防空作戦』317-326頁</ref>。 
 
鉾田教導飛行師団の被教育者は、編成表により大尉を対象とする'''甲種学生'''、尉官対象の'''乙種学生'''、同じく'''射撃学生'''と、[[准士官]]および[[下士官]]からなる'''己種学生'''(きしゅがくせい)とされた<ref>{{アジア歴史資料センター|C14010700200|下志津教導飛行師団等 臨時編成要領 同細則 昭19.6.13(防衛省防衛研究所)}}</ref>。己種学生とはそれまで[[陸軍航空士官学校]]で教育が行われていた[[少尉候補者]]を、1944年5月陸軍航空関係少尉候補者教育令([[勅令]]第344号)により各部隊での教育に改めた学生である<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022289100|御署名原本・昭和十九年・勅令第三四四号・陸軍航空関係少尉候補者教育令(国立公文書館)}}</ref>。
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マリアナ方面攻撃と前後する1944年初期より、陸軍中央では飛行機が艦船に体当たりを行う特別攻撃の検討を開始していた<ref>『比島捷号陸軍航空作戦』344頁</ref>。同年7月、教導航空軍司令部は鉾田教導飛行師団に対し、[[九九式双発軽爆撃機]]による[[特別攻撃隊]]の編成を内示した<ref group="*">同時期に浜松教導飛行師団に対しては、重爆撃機を使用した特別攻撃隊の編成が内示された。</ref><ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』266-267頁</ref>。1944年10月21日、鉾田教導飛行師団において岩本益臣<ref group="*">岩本益臣(いわもとますみ)陸軍大尉。陸軍航空士官学校卒業(第53期)、1943年3月より鉾田陸軍飛行学校教官。1944年11月5日戦死、少佐進級。「ますみ」の読みは故岩本少佐の故郷、豊前市の印刷物による。「ふるさと豊前・人物再発見 No.74」 [http://www.city.buzen.lg.jp/gakkou/documents/houkyou95.pdf 『広報 豊教だより』第65号、2012年5月1日]</ref>大尉以下16名による特別隊が編成された。同隊は[[フィリピン]]に移動し、同月29日、[[ルソン島]][[バタンガス州]]リパで「'''[[萬朶隊]]'''」<ref group="*">萬朶(ばんだ)の隊名は、参謀総長[[梅津美治郎]]大将が[[藤田東湖]]の漢詩「文天祥正氣ノ歌ニ和ス(正気の歌)」―「天地正大気 粹然鐘神州 秀爲不二嶽 巍巍聳千秋 注爲大瀛水 洋洋環八州 發爲'''萬朶'''櫻 衆芳難與儔(後略)」を出典として命名した。『比島捷号陸軍航空作戦』347頁</ref>と命名された<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』263-270頁</ref>。この萬朶隊および同時期に浜松教導飛行師団から編成された「富嶽隊」が、陸軍で最初に編成された特別攻撃隊である。
 
[[File:Mitsubishi Ki-51-1.jpg||250px|thumb|九九式襲撃機は特別攻撃隊にも用いられた]]
同年11月、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]で特別攻撃隊による体当たり攻撃が行われるようになると、「八紘特別攻撃隊」全12隊からは[[九九式襲撃機]]を使用する第5隊(鉄心隊)、[[二式複座戦闘機]]を使用する第8隊(勤皇隊)、同じく第11隊(皇魂隊)が鉾田教導飛行師団の人員により編成された<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』329-330頁</ref>。各隊の隊長は士官候補生第56期の出身で[[陸軍航空士官学校]]または[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]<ref group="*">地上兵種の教育を行う陸軍士官学校から航空へ転科する場合がある。皇魂隊の隊長、三浦恭一中尉は地上兵種からの転科。『陸軍航空士官学校』211頁</ref>を卒業し前年の鉾田陸軍飛行学校における乙種学生教育修了後、そのまま教官となった若い[[中尉]]たちである<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』330頁</ref><ref>『陸軍航空士官学校』210-211頁</ref>。隊員は同じ鉾田教導飛行師団の乙種学生を秋に卒業したばかりの士官候補生第57期出身者や[[特別操縦見習士官]]と、[[少年飛行兵]]出身の[[伍長]]などの混成であった。同年12月、航空総監部の兼任であった教導航空軍司令部は編成を解かれ、第6航空軍司令部が編成された<ref>『本土防空作戦』432-433頁</ref>。
 
1945年(昭和20年)1月、「振武特別攻撃隊」30隊(第18~第47)、同年3月にはさらに69隊(第48~第116)の編成が発令され、そのうち鉾田教導飛行師団より計5隊が抽出されている<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』402-403頁</ref>。
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=== 教導飛行師団 第3教導飛行隊 ===
1945年(昭和20年)7月10日、軍令陸甲第103号<ref group="*">軍令の名称は「第二十戦闘飛行集団司令部 教導飛行師団等臨時編成(編制改正)第三百五十四次復帰要領」(原文は旧字体)。</ref>が下令され、それまで航空要員の教育と作戦行動を兼務していた明野、浜松、鉾田ほか各教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊に分離改編された<ref name="Gunsenbi495">『陸軍軍戦備』495頁</ref><ref name="Sakusen605">『本土防空作戦』605頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C14010706100|第20戦闘飛行集団司令部 教導飛行師団等臨時編成(編制改正)復帰要領 同細則 昭20.7.10(防衛省防衛研究所)}}</ref>。教育専任となったのは、従来6個編成であった各地の教導飛行師団を統合し地名を冠称しない'''教導飛行師団'''(司令部は従来の[[宇都宮教導飛行師団]]基幹)1個である。その編制は司令部と6個教導飛行隊からなり<ref name="Sakusen605"/><ref>『陸軍軍戦備』495頁</ref><ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』418頁</ref>、鉾田教導飛行師団の主力は教育専任として教導飛行師団の'''第3教導飛行隊'''に改編された<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』413頁</ref><ref name="Sakusen605"/>。
 
同時に作戦専任としては第1航空軍隷下となる第26飛行団司令部が、それまでの鉾田教導飛行師団の一部より編成され<ref group="*">飛行団長は鉾田教導飛行師団の高品朋師団長を補職。</ref>、鉾田陸軍飛行場にそのまま司令部を置いた<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』413,418頁</ref><ref>『帝国陸軍編制総覧 第三巻』1163頁</ref>。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references {{Reflist|group="*"/>}}
 
=== 出典 ===
115行目:
{{-}}
{{日本の軍学校}}
 
{{DEFAULTSORT:ほこたりくくんひこうかつこう}}
[[Category:日本陸軍の教育機関]]