「土田直鎮」の版間の差分

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'''土田 直鎮'''(つちだ なおしげ、[[1924年]](大正13年)[[1月16日]]<ref name="nichireki">{{harvnb|笹山晴生|1993}}</ref> - [[1993年]](平成5年)[[1月24日]]<ref name="nichireki"/>)は、日本の[[歴史学者]]。[[東京大学]][[名誉教授]]。元[[国立歴史民俗博物館]]長<!--官報掲載辞令上「館」は重畳しない-->。
 
== 来歴・生涯 ==
東京大学卒業後は、史料編纂所に勤務し、「[[大日本史料]] 第二篇」の編纂に従事した。専門は日本古代史で、平安時代の貴族社会に関する論考が多い。特に[[摂関政治]]期の政治について、当時の通説であった[[摂関家]]の[[政所]]が政治の中心であったとする「政所政治」論を否定して、依然として[[太政官]]を中心とした政務が行われていたことを立証したことで知られている。土田の研究方針は、史料を精密に理解するの一言に尽き、後世に名を残すといった功名に基づく研究を嫌っていた。1993年1月24日、国立歴史民俗博物館長在職中のまま、肺炎のため死去<ref name="nichireki"/>
 
== 略歴 ==
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二、古代のことは、古代の人の心にかえって考えなくてはならない。<br>
三、俺は長い間、そうしようと思ってやってきたが、結局駄目だった。お前らにできるわけがない。ざまぁみろ。<br>
古代のことを古代人の心で考えるというのは研究者として当たり前の態度であるが、土田ほどの碩学が駄目だったと正直にこぼした意味は深い。また、常々「俺は[[藤原道長|道長]]なんかと酒は飲みたくない」と語っていたという<ref>[[{{harvnb|倉本一宏]] 「解説」(新装版・[[中公文庫]] 『日本の歴史5 王朝の貴族』 [[中央公論新社]]、|2004年、p.|pages=536-537}}</ref>。
 
学徒出陣の際は、埼玉県にあった熊谷陸軍飛行学校に見習士官として入校し、教官から「お前たちは消耗品である」という訓示を受け、面会や外出、休暇もなく、家族写真の持ち込みや隊での写真撮影まで禁止される、特攻のための厳しい訓練を受けた。
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== 参考文献 ==
*{{Cite Journal|和書|author=[[笹山晴生]]|title=土田直鎮氏の訃(学界消息)|journal=日本歴史|issue=539|year=1993年4月、「学会消息」欄|publisher=吉川弘文館|issn=03869164|page=124|ref=harv}}
* [[青木和夫]]「土田直鎮先生を偲ぶ」史学雑誌102-6、1993年6月
* 「土田直鎮年譜」「土田直鎮著作目録」 『国立歴史民俗博物館研究報告50』 1993年
*{{Cite Book|和書|author=[[倉本一宏]]|chapter=解説|title=日本の歴史5 王朝の貴族|edition=新装版|series=中公文庫|publisher=[[中央公論新社]]|year=2004|ncid=BA69175490|ref=harv}}
 
== 関連人物 ==
* [[竹内理三]]