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'''慕容 恪'''(ぼよう かく、[[322年]]?不詳<ref>322年という生年は『[[晋書]]』「載記」の、では慕容恪が15歳で兵を授かったという記述とあり、『[[資治通鑑]]』で慕容恪が軍を率いたと記録される最初の年が338年である338年から算出されるため、322生年は324年以前の可能性があと推測できる。</ref> - [[367年]][[5月]])は、[[五胡十六国時代]]の[[前燕]]の[[政治家]]・[[武将]]である。太原桓王。[[字]]は'''元恭'''。[[鮮卑]][[慕容部]]の出身であり、昌黎郡棘城県(現[[遼寧省]][[義県]]の西方)の人。[[慕容コウ|慕容皝]]の第4子で、兄に[[慕容儁]]、弟に[[慕容垂]]・[[慕容徳]]がいる。[[前燕]]の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される<ref>《陳寅恪魏晋南北朝史講演録》:貴州人民出版社,2008年 による</ref>。
 
== 生涯 ==