「ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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'''ロタール3世'''(Lothar III., [[1075年]][[6月]] - [[1137年]][[12月3日]])は中世西欧の[[ザクセン君主一覧神聖ローマ皇帝|ザクセン公ローマ皇帝]](在位:[[1106年]] - 1137年)、[[ローマ王|ドイツ王]]としての在位[[1125年]] - 1137年)から[[神聖ローマ皇帝としての在位は[[1133年]]からである。 [[ザクセン君主一覧|ザクセン公]](在位:[[11331106年]] - 1137年)でもあった。国王選挙によって選ばれた[[ズップリンブルク家]]<ref>菊池、p. 85では「ズップリンゲンベルク家」と記されている。</ref>のローマ王、ローマ皇帝であるが、ズップリンブルク家の王位は1代限りであった。ローマ皇帝としてはロタール「2世」である。しかしが、ローマ皇帝は同時にイタリア王でもあるためイタリア王[[ロターリオ2世]]との区別のため「3世」とされることが多い。ロタリンギア王[[ロタール2世]]との区別のためでもある。
 
 
== 生涯 ==
=== ザクセン公領の継承 ===
1075年、父[[ゲープハルト (ズップリンブルク伯)|ゲープハルト]]が神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]との戦いで戦死した後に遺腹の子として生まれた。当初はザクセンにそれほどの勢力を持たなかったが、結婚とそれに伴う相続によって領土を拡大、1106年に[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]からザクセン公[[マグヌス (ザクセン公)|マグヌス]]亡き後のザクセン公に選ばれた<ref name=S338>瀬原、p. 338</ref>。しかし、ハインリヒ5世と対立し、[[1115年]]に[[ヴェルフェスホルツ]](現在の[[マンスフェルト]]近郊)で帝国軍を撃破、王権をザクセンから排除した<ref>瀬原、p. 343</ref>。
 
[[1123年]]にアイレンブルク伯兼[[マイセン辺境伯]][[ハインリヒ2世 (アイレンブルク伯)|ハインリヒ2世]]が死去、ハインリヒ5世がグロイチュ伯[[ヴィプレヒト2世 (グロイチュ伯)|ヴィプレヒト2世]]をマイセン辺境伯に指名するとこれに反発、ハインリヒ2世の従叔父の[[コンラート1世 (マイセン辺境伯)|コンラート]]と組んでヴィプレヒト2世を追放、マイセン辺境伯領をコンラートに、[[ラウジッツ]]をバレンシュテット伯[[アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト熊公]]に与えた<ref>瀬原、p. 347</ref>。ハインリヒ5世はこの事態に対処しようとしたが、1125年に死去した。