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{{日本の氏族
|家名=山吉氏
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'''山吉氏'''(やまよしし)は、日本の[[姓氏]]のひとつ。
 
[[平氏#高望王流|桓武平氏]]の[[平頼盛]]の末裔([[平氏#高望王流|桓武平氏]][[城氏 (平氏)|城氏]]流とする説もある)との伝承をもち、{{要出典範囲|date=2017年6月|[[北陸道]]の[[越後国]][[蒲原郡]]山吉{現在の[[新潟県]][[見附市]]山吉町(やまよしまち)}に由来すると考えられている}}
<!--[[三浦氏]]流を名乗る場合もあるが、それは三浦氏族[[佐原氏]]から[[婿養子]]が入った[[家系]]であるため、後世に[[男系]][[系図]]として伝わったものと思われる。-->
越後[[守護代]][[長尾氏]]の配下として、三条城(島之城)にって勢力を築き、蒲原[[郡代]]として活躍した。
 
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また江戸時後期に成立したとされる「法華宗総本山本成寺縁起」には[[永仁]]5年([[1298年]])、山吉定明が[[青蓮華寺]](後の長久山[[本成寺]]、新潟県[[三条市]])([[法華宗陣門流]]総本山)を建立したとしている。しかし、[[応永]]以後の確実な史料に登場する山吉一族が本成寺の大檀那として重きをなしたのは事実だが、江戸時代初期に成立した山吉氏の家譜や[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])に書かれた本成寺の「列祖伝」や江戸中期の「陣門祖略伝」「長久山歴代譜」には山吉家と本成寺の開基の関係については一切記述されていない。
 
15世紀に成立したといわれる「蒲原郡段銭帳」には長尾氏の被官として山吉氏の名が見える。蒲原[[郡司]]で[[三条城]](新潟三条市)主の[[三条長尾家]]の[[長尾高景]]は、府中(府内)(新潟県[[上越市]])の[[春日山城]]へ移り越後国[[守護代]]の地位を世襲する越後長尾家の本家の地位を獲得し、これにより府中(府内)長尾家とも呼ばれるようになったされる。長尾氏との主従関係の発端は明らかにされていないものの、三条長尾家の下で、被官山吉氏が越後国蒲原郡の統治権を得、三条城主となり、蒲原郡司の代わりを勤めるようになったと考えられている。
 
山吉氏の確実な史料の初見は、[[長尾邦景]]の時代にあたる[[応永]]29年([[1422年]])[[山吉行盛]]が郡司として奥山庄の[[黒川氏]]に下した「山吉行盛直状」(『新潟県史資料編』1312号)であるが、すでにこの頃、管轄領域は蒲原郡のみならず、瀬波郡([[岩船郡]])にも及んでいた。[[応永の乱 (越後国)]]では[[山吉久盛]]が三条島之城で[[長尾邦景]]方として戦っており、{{要出典範囲|date=2017年6月|当時かなりの軍事基盤をもつ領主となっていたと推測される}}。邦景・[[長尾実景|実景]]父子が実権を握っていた[[文永]]3年([[1446年]])まで史料上確認できる久盛以後、[[長尾能景]]時代の[[延徳]]4年([[1492年]])に山吉四郎右兵衛尉正綱が現れるまで、山吉氏は史料に全く現れず、その動向ははっきりしない。しかし、守護上杉氏と守護代長尾氏の対立の中で邦景父子が没落し、新たな守護代長尾氏が成立する中でも、蒲原郡代の地位と権限は失うことはなかった。[[永正の乱]]や享禄・天文の乱では[[山吉能盛]]や[[山吉政久]]が[[長尾為景]]について活躍している。
 
長尾景虎([[上杉謙信]])の時代には、山吉豊守は謙信の側近として諸大名との外交折衝などに活躍した。この頃になると、蒲原郡内の広範囲に一族を配置したり、土豪層の被官化が進められている。彼らは「三条衆」と呼ばれ、[[天正]]3年([[1175年]])の「上杉家軍役帳」では豊守は謙信政権下、最大の軍事力を誇っていた。豊守を継いだ[[山吉景長|景長]]になって上杉家の家法により領地半減の上に三条城を失い[[木場城]]へ移った。上杉氏が[[会津]]を経て、[[出羽国]]米沢([[山形県]][[米沢市]])に移封されるとそれに従い、以後[[江戸時代]]は[[出羽国]][[米沢藩]]士として連綿と続いた。