「葛山氏元」の版間の差分

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[[葛山氏]]は駿河国の東部に広域にわたって在地領主制を展開した国衆。その支配地域が[[今川氏]]の駿河、[[武田氏]]の[[甲斐国|甲斐]]、[[後北条氏|北条氏]]の[[相模国|相模]]の三国の国境沿いに位置していたため、形の上では今川氏に従属していたが、武田氏や北条氏とも関係が深かった。
 
氏元も当初は今川氏に帰属していたが、永禄後年には同盟関係にあった武田・今川氏の関係が険悪化し、[[永禄]]11年([[1568年]])末に武田氏は今川領国への侵攻を行う([[駿河侵攻]])。氏元は[[朝比奈信置]]や[[瀬名氏]]らと武田方に内応し、翌永禄12年2月1日には武田家臣[[穴山信君]]とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた[[富士郡]]の[[富士信忠]]の守る[[大宮城 (駿河国)|大宮城]](富士宮市)を共に攻めている(『静岡県史』資料編8 - 358号)。
 
氏元は信玄の六男の[[葛山信貞|信貞]]を養子とし家督を譲り、信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は[[城代]]の[[御宿友綱]]が行っていたと考えられている。天正元年2(1573年)2月末、謀反の嫌疑により[[信濃国]][[諏訪]]において処刑されたという(仏眼禅師語録)。
 
[[御宿友綱]](監物)や[[御宿政友]]を輩出した[[御宿氏]]とは同族である。
 
{{DEFAULTSORT:かつらやま うしもと}}