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== 川崎美術館と長春閣・美術蒐集家としての正蔵 ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年4月}}
明治29年に第一線を引退してからの川崎正蔵は、造船事業家としてよりもむしろ美術蒐集家として社会的に有名であった。正蔵は仕事で他家を訪問するごとに、家屋や庭園、さらに床の間の書画、置物、装飾品にいたるまで、深い注意を払うのを常とし、これがおのずから美術鑑賞眼を養った。そして、家屋、庭園、美術品は川崎の唯一ともいうべき趣味であり、自分の大志を励ます何よりの刺激剤であった。川崎の美術蒐集は、彼の造船業への参入の動機と同じように、[[明治時代]]に生きた人間らしい[[ナショナリズム]]に基づくもので、すなわち[[明治維新]]後には日本の伝統的な美術品は欧米の美術愛好者のために輸出されることが多くなり、多くの名品が日本で見られなくなる状態が出現しつつあった。川崎はこのような伝統的美術品が国外へ流出することを恐れる心情も手伝って、明治11年に築地造船所をの経営に着手したころからおりにふれて美術品を蒐集し始め、生涯にわたって2000余点の名品を買い集めた。そして明治18年から着工した神戸の布引の豪壮な本邸内に美術館を建てて、自分の蒐集した名品を陳列し、一般に公開した。その所蔵品の中でも、とくに中国の[[元時代]]の名画家である[[顔輝]]の「[[寒山拾得]]二幅対」や、[[春日基光]]画「[[千手千眼観音]]」(いずれも後に[[国宝]]に指定された)は世間で有名であった。しかし彼の蒐集した美術品の多くは、後に昭和2年の金融恐慌の際に川崎家が危機に陥った時に、売却される運命にあった。川崎は美術愛好家として高名であっただけでなく、自ら美術品の製作にも乗り出している。彼は明治29年ごろから、[[明代]]の[[万暦]][[七宝]]に匹敵できる[[七宝焼]]を完成することを志し、[[尾張]]七宝焼の後継者であった[[梶佐太郎]]一族を30年に神戸に呼びよせ、[[布引山]]に七宝焼の工場を設けて研究させ、3年後には見事な[[七宝]]の製作に成功した。そして明治33年にパリで開催された万国博覧会に大花瓶と大香炉を出品して名誉大賞を獲得した。彼はその後も七宝の名品を多く製作したが、1品も売却せず、「川崎の宝玉七宝」と名づけて美術愛好家に贈ることを喜びとしていた。この[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]に出席するために、川崎は7人の一族を引き連れてヨーロッパを巡遊し、イギリスの造船業と諸国の美術工芸を見てまわった。そしてこれが最後の華々しい社会的活動であった。その後は体調を崩し、健康の回復を第一の目標として、全国各地の別荘をめぐる「富豪の隠居」が川崎正蔵の実像であった。<ref>「造船王 川崎正蔵の生涯」、三島康雄、1993、同文館出版</ref><ref>「幻の五大美術館と明治の実業家たち」、中野明、2015、祥伝社新書</ref>
 
== 栄典 ==