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[[福井県]][[福井市]]の[[鍛冶屋]]、父・和田甚三郎、母・はまの長女として出生。年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、[[1916年]](大正5年)[[日本女子大学|日本女子大学校]]卒業後、[[労働組合期成会]]の機関紙『[[労働世界]]』の記者になり、身分を偽り[[富士紡ホールディングス|富士瓦斯紡績]]に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
 
[[1920年]](大正9年)、政治的要求を綱領に掲げる初の婦人団体・[[新婦人協会]]を[[平塚らいてう]]、[[市川房枝]]らと設立して共に理事に就任したが、[[国際共産主義運動]]から[[女性解放運動]]への[[転向#共産主義などからの転向|転向]]を、[[赤瀾会]]の[[山川菊栄|山川菊榮]]らから批判された。1921年(大正10)106)6月26日に市川が理事を辞任して渡米し、平塚も健康上の理由により協会運営から退いたため、協会の活動は奥と[[坂本真琴]]が中心となって継続。本部事務所を坂本宅に移し、[[機関誌]]『[[女性同盟]]』の編集は奥が引き継ぎ、自宅を編集部に宛てた。
 
[[1922年]](大正11年)には、新婦人協会の第一目標であり、女性の集会の自由を阻んだ[[新婦人協会#治安警察法第5条改正運動|治安警察法第五条二項の改正]]に漕ぎ着けたが、協会内における路線対立が激化し解散となる。[[1923年]](大正12年)自らの団体[[職業婦人社]]を旗揚げし、[[雑誌]]『[[職業婦人]]』(後に『婦人と労働』→『婦人運動』と改題)を発刊し運動を継続した。
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消費者運動にも意を注ぎ、[[1928年]](昭和3年)[[婦人消責組合協会]]を立ち上げた他、[[1930年]](昭和5年)には[[保育所|託児所]]兼集会所『婦人セツルメント』(後に『働く婦人の家』に発展)を設け全国展開した。日本生活協同組合連合会の副会長や全国婦人会館協議会会長を務めた。<ref>ビジュアル日本史ヒロイン1000人263頁</ref>
 
戦時中は[[国民精神総動員運動]]、[[大政翼賛会]]などに積極協力したとして戦後批判される<ref>[[主婦連合会]]による外伝では昭和10年代の記述はほとんど欠落している。</ref>。
 
[[1947年]](昭和22年)の[[第1回参議院議員通常選挙]]に[[国民協同党]]公認で[[全国区制|全国区]]から出馬し、抜群の知名度を利して上位当選。以降無所属([[院内会派]][[緑風会]]所属)になり、[[1965年]](昭和40年)に勇退するまで3期18年務めた。
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==著書==
*『婦人問題十六講』 新潮社、1925年
*『花ある職場へ』 文明社、1941年
*『新女性の道』 金鈴社、1942年
*『戦ふ女性 女も働かねばならぬ』 大政翼賛会、1943年
*『台所と政治 団結した主婦たち』婦人団体シリーズ、大蔵省印刷局、1952年
*『あけくれ』 ダヴィッド社、1957年
*『野火あかあかと‐奥むめお自伝‐』(人間の記録51)ドメス出版、1988年
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* [[与謝野晶子]]
* [[平塚らいてう]]
* [[海老原喜之助]] - 1930年代に同棲し、『婦人運動』の表紙絵も手掛けた<ref>[http://www.plaza-f.or.jp/about/mumeoten/page3/page3.html  人間奥むめおの軌跡]一般財団法人主婦会館</ref><ref>[http://kenzo-okada.com/kenzo58.html  岡田謙三と良き仲間たち 海老原喜之助]岡田謙三コム</ref>。
 
==註==
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{{参議院決算委員長|1952年-1953年}}
 
{{Japan-politician-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:おく むめお}}
[[Category:女性参議院議員]]