「成瀬正一 (フランス文学者)」の版間の差分

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父は[[十五銀行]]の[[支配人]]・[[頭取]]を務めた[[成瀬正恭]]。
 
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学卒業。東京帝大在学中に[[芥川龍之介]]、[[久米正雄]]、[[菊池寛]]、[[松岡譲]]と第4次『[[新思潮]]』を創刊する。菊池の一高退学以降、菊池の学費や生活の工面を成瀬の父親が世話しており、菊池の小説「[[大島ができる話]]」のモデルとなったのは成瀬の母親の峰子である。『新思潮』には数編の小説を載せたが、大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門としたが、43歳で病死した。1919年に結婚した妻の福子(1898-1982)は、[[川崎正蔵]]([[川崎造船所]]創業者)の孫で 川崎芳太郎([[川崎造船所]]副社長)の長女。息子に成瀬不二雄(日本の洋風画研究者、[[大和文華館]]次長)。娘に村上光子(俳人、[[馬酔木(雑誌)」]]同人)。
 
学生時代からロマン・ロランと文通し、ロランに会った最初の日本人である(1918年7月)。第一次世界大戦中スイスに亡命中のロランとの3週間にわたる率直な心の交流については、ロラン著「戦時の日記」(『ロマン・ロラン全集』みすず書房)に詳しく書かれている。