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たいう→たという
アウラングゼーブはといえど、父帝の命令には逆らえず、[[4月13日]]にゴールコンダの包囲を解き、ゴールコンダ王国はその命脈を保った<ref name="p42"/><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=AV--abKg9GEC&pg=PA174&lpg=PA174&dq=siege+of+Golkonda+1656&source=bl&ots=iJXmW1JF3k&sig=llX-jHTH4TN2CKn0G08sKwxMrbY&hl=ja&sa=X&ei=TVfaU6j_NsXq8AWBmICoAw&ved=0CGsQ6AEwCA#v=onepage&q=siege%20of%20Golkonda%201656&f=false The Peacock Throne The Drama of Mogul India - Waldemar Hansen - Google ブックス]</ref>。しかし、アウラングゼーブはゴールコンダ側に莫大な賠償金を課し、そればかりか自身の長男[[スルターン]]をアブドゥッラー・クトゥブ・シャーの後継にすると約束させ、王の長女をその妃に差し出すよう命じた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.42-43</ref>。
 
ミール・ジュムラーの帰順もまた、このとき家族や自身の軍隊とともに立ち退くことを認められ、アウラングゼーブとともに王国を去った<ref name="p43">ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.43</ref>。アウラングゼーブとミール・ジュムラーはその道中[[ビジャープル王国]]を通過したが、その際に同国で最も大規模な城塞[[ビーダル]]を落として手中に入れ([[ビーダル包囲戦]])、ダウラターバードへと戻った<ref name="p43"/>。
 
[[フランス]]の旅行家[[フランソワ・ベルニエ]]によると、アウラングゼーブとミール・ジュムラーの二人はダウラターバードで固い友情に結ばれ、アウラングゼーブは一日に二度ミール・ジュムラーの顔を見ずには生きていけず、ミール・ジュムラーもアウラングゼーブにまた会わずには一日を過ごせなかったのだという<ref name="p43"/>。ベルニエはまた、ミール・ジュムラーとの結びつきが、
「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している<ref name="p43"/>。
 
そののち、ミール・ジュムラーはシャー・ジャハーンに面会するため、妻子ら家族とともにアウラングゼーブのもとを離れ、多数の贈答品を携帯してアーグラへ赴いた<ref name="p43"/>。シャー・ジャハーンに面会した際、ミール・ジュムラーはゴールコンダの豊かさを証明するため巨大なダイヤモンドである[[コーヒ・ヌール]]を贈呈し、岩山のカンダハールよりはデカン方面へと兵を進め、[[コモリン岬]]まで制圧するよう進言した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.43-44</ref>。シャー・ジャハーンはこの進言を受け入れ、ミール・ジュムラーの指揮の下で大軍を送ることにした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.44</ref>。
 
だが、ここで皇帝の長男ダーラー・シコーがアウラングゼーブに兵力を注ぐことになると反対し、この企てを止めようとした<ref name="p45">ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.45</ref>。その結果、アウラングゼーブはデカン総督としてダウラターバードにとどまり戦争に一切関与しない、ミール・ジュムラーを総大将に全権を持つこと、その忠誠を保証するために彼の家族をアーグラに留めおくことが条件とされた<ref name="p45"/>。ミール・ジュムラーは仕方なくこの条件を受け入れてデカンへと進み、ビジャープル王国の領土へと入り、[[カリヤーン]](カリヤーニー)の城塞を包囲した<ref name="p45"/>。
その後、アウラングゼーブはアーグラの貴族らを味方につけ、ダーラー・シコーの長男スライマーン・シコーについていた武将[[ジャイ・シング]]に帰属を求める手紙を送った。[[6月20日|20日]]、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに会いに行くという口実のもと、長男スルターンをアーグラへ送り、シャー・ジャハーンの身柄を拘束させた<ref name="delhi6">[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref><ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97</ref>。彼自ら会いにいかなかったのは、姉のジャハーナーラー・ベーグムがアウラングゼーブに対して陰謀を企てていたからだ、とベルニエは語っている。のち、[[6月22日|22日]]にアウラングゼーブの任命した城塞司令官の[[イティバール・ハーン]]はシャー・ジャハーンをジャハーナーラー・ベーグムといった女性らとともにアーグラ城へと幽閉し、厳重な見張りをつけた<ref name="delhi6"/><ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101</ref>。
 
[[7月7日]]夜、アウラングゼーブは弟のムラード・バフシュを騙し、酔って寝ているところを捕えた<ref name="delhi6"/>。アウラングゼーブの周到な買収工作により、翌朝までにムラード・バフシュの軍勢は簡単に乗っ取られた<ref >ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.105-107</ref>。アウラングゼーブはムラード・バフシュをそのまま[[デリー]]の[[サリームガル城]]へ、ついで[[グワーリヤル]]へと送った。
 
同月[[7月31日]]、アウラングゼーブはデリーの[[デリー城]]で即位式を挙げ、「アーラムギール」つまり「世界を奪った者」の称号を名乗り、帝国の皇帝となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.229</ref><ref name="delhi7"/>。アーラムギールの称号を名乗った理由には、父の王号シャー・ジャハーンの意味が「世界の皇帝」であったからだと考えられる<ref name="p216"/>。
[[1661年]][[12月]]、アウラングゼーブは弟ムラード・バフシュを処刑した<ref name="p233"/>。ムラード・バフシュの処刑を担当したのは、父であるサイイドを殺された息子らであった。アウラングゼーブは聖なる法に基づく形でこの処刑の実行を命じたのである<ref name="p233"/>。
 
こうして、アウラングゼーブは3人の兄弟を抹殺することに成功したが、最後に残ったシャー・ジャハーンに対しても復讐行為を続けた<ref name="p234">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>。シャー・ジャハーンを引き続きアーグラに幽閉したまま、個人の宝石を取り上げたしたため、上履きを買い替えたりヴァイオリンを修理するぐらいの金すらなくなってしまった<ref name="p234"/>。アウラングゼーブはまた書簡のやり取りで、父に対して「ダーラー・シコーを偏愛し自分は愛さなかった」、と横柄な口調の手紙で厳しく追及し続けた<ref name="p234"/>。
 
[[1666年]][[2月1日]]、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉されたままで死亡した<ref name="p234"/>。
とはいえ、姉のジャハーナーラー・ベーグムはその死の間際、アウラングゼーブを許す手紙にサインさせている<ref name="p234"/>。
 
===マラーターの台頭・シヴァージーとの争い===
[[File:Shivaji british meusium.jpg|thumb|right|200px|[[シヴァージー]]]]
アウラングゼーブは皇位継承戦争後、帝国の繁栄を維持するため、[[1660年]]から帝国の領土拡大を目指すようになった。北西方面ではかつてサファヴィー朝との争いに敗北したために領土の拡大は望めず、北東方面ではミール・ジュムラーが[[アーホーム王国]]と交戦状態に入っていたが、一進一退であった。そのため、アウラングゼーブはデカン方面に帝国の領土拡大を目指した。
 
だが、アウラングゼーブはまもなく、デカンで[[ヒンドゥー]]の復興を目指す[[マラーター]]の指導者[[シヴァージー]]と衝突した。マラーターはデカンを中心とした新興カースト集団で、バフマニー朝やその継承国家である[[デカン・スルターン朝]]は彼らを傭兵などの軍事力として依存した。シヴァージーはその一つ[[ビジャープル王国]]の小領主の息子として生まれたが、[[1640年]]にマラーター勢力を率いて王国に反乱を起こし、[[1660年]]には[[アラビア海]]に面する[[コンカン地方]]に独自の政権を持つにいたった。彼が率いるマラーター勢力は強固な山城[[ラーイガド]]を中心に多数の砦を拠点とし、西インドの重要都市[[スーラト]]などムガル帝国の領土に何度も襲撃、略奪をおこなった。
 
そのため、1660年にアウラングゼーブは叔父[[シャーイスタ・ハーン]]をデカン総督として派遣し、シヴァージーの掃討にあたらせた。だが、シャーイスタ・ハーンは息子を殺されたばかりか、自身も指を切られる大けがを負った。[[1664年]]にアウラングゼーブはシャーイスタ・ハーンを更迭し、[[ベンガル太守]]としてベンガルへと送った。
しかし、1660年代にマラーターなどヒンドゥー勢力が台頭し、帝国の領土に侵入するようになると、アウラングゼーブは異教徒抑圧に力を入れるようになった<ref name="p271"/>。アウラングゼーブは治世の前半、歴代皇帝が行なってきた融和路線に基づく穏健な宗教政策を完全に改めた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref>。これ以降、アウラングゼーブは保守反動的な宗教政策を取り、他宗教に厳しい弾圧を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.237-238</ref>。
 
アウラングゼーブは自身が手本となるよう、祈りや断食、その他イスラーム教の義務を毛厳守することを実行し、宝石など身に着けずに羊毛や綿の衣服といった質素な服装のみを着付けていた<ref name="p234"/>。彼はその側近にもこれを厳しく要求し、デリーとその近郊においてこれらは厳格に保たれていた<ref name="p234"/>。
 
アウラングゼーブの治世、ウラマーは重用され、アクバルの治世に失った領地や権威などを取り戻した。1660年代から[[1670年]]にかけて、アウラングゼーブはムガル帝国の法体系を確立するためにウラマーにこれまでの判例集を収集させ、判例集「[[ファターワーイェ・アーラムギーリー]](アーラムギールの教令集)」を編集させた<ref name="p238">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.238</ref>。
 
[[1669年]][[4月9日]]、アウラングゼーブは帝国全土でヒンドゥー教の寺院を破壊するよう勅令([[ファルマーン]])を出した<ref name="ch4">[http://voiceofdharma.org/books/htemples2/ch4.htm CHAPTER FOUR THE MARXIST HISTORIANS]</ref>。これにより、グジャラート、マトゥラー、ヴァーラーナシー、ラージプーターナーなどのヒンドゥー寺院が積極的に破壊された。寺院にあった宝物や偶像は奪われるか砕かれ、大部分はアーグラへと送られた<ref name="p235"/>。
同年、ジャート族の農民と[[ザミーンダール]]20,000人がマトゥラー方面で反乱を起こすと、アウラングゼーブは自らその反乱を鎮圧し、翌[[1670年]]1月に[[マトゥラー]]の[[ケーシャヴァ・デーヴァ・ラーイ寺院]]を破壊した<ref name="ch4"/><ref name="p271"/>。これに対してもジャートの反乱が起きたが、アウラングゼーブは首謀者を捕え、その体をアーグラで八つ裂きにした<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、pp.237-238</ref>。
 
また、[[カーシー・ヴィシュヴァナート寺院]]や[[ヴィシュヴェーンドラ寺院]]が破壊されたヴァーラーナシーでは、ヒンドゥーとムスリムがカーシー・ヴィシュヴァナート寺院の跡に建てられた[[ギャーンヴァーピー・モスク]]で乱闘騒ぎを起こした<ref name="p236">クロー『ムガル帝国の興亡』、p.236</ref>。そのため、こういった騒ぎが起きたいくつかの州では、命令を実行しない、あるいは賄賂を受け取ることで解決する州も出てきた<ref name="p236"/>。
 
また、1660年代に[[シク教]]の教主[[テーグ・バハードゥル]]が北インドを縦断して布教を行い、多くの人々がシク教に改宗し、なかにはイスラーム教から改宗したものもいた<ref name="p239">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.239</ref>。アウラングゼーブはこれを許さず、[[1675年]]にテーグ・バハードゥルを捕らえ、彼をイスラーム教冒涜の罪で処刑した<ref name="p239"/>。これ以降、シク教徒は[[ゴーヴィンド・シング]]に率いられ、アウラングゼーブの治世を通してムガル帝国に反抗した。
 
===マラーター王国の創始とジズヤの復活===
[[File:Aurangzeb 2.jpg |thumb|200px|アウラングゼーブ]]
アウラングゼーブはヒンドゥー教徒の弾圧を強めたことで、ヒンドゥーの復興を掲げるマラーターの指導者シヴァージーと更なる対立に陥った。シヴァージーは帰還後、両者の関係は概ね平和であったが、シヴァージーは弾圧を見てプランダル条約を事実上破棄した。
 
一方、帝国内はアウラングゼーブの宗教弾圧により宗派間で分裂状態に陥りつつあったが、[[1679年]][[4月2日]]にアウラングゼーブは[[ジズヤ]](人頭税)の再賦課令に裁可を下し、復活した<ref name="p248">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248</ref>。ジズヤはアクバルの治世以来100年以上廃止されてきたが、アウラングゼーブは自身から離れつつあるムスリムの結束を強め、その熱狂的支持を得ようとする算段があったのだ、と近藤治は主張する。
 
さて、ジズヤはムスリム以外の異教徒に課せられる直接税であったが、富裕層、中間層、貧困層に分けて課された。アウラングゼーブの場合、ジズヤの年額は富裕層13ルピー、中間層6・56.5ルピー、貧困層3・53.5ルピーだった。ジズヤはまた逆進的な課税方式をとったため、富裕層や中間層には軽微なものであったが、貧者の負担する税額は極端に高くなり、それは当時の都市在住の未熟練の1ヶ月分の手取りに相当する額であった。とはいえ、女性、子供、老人、心身障害者、極貧者には課せられなかったため、ジズヤは徹底した調査を必要とし、課税する側にも多大な負担がかかり、その税収を目的とするよりはむしろ、イスラームの正統主義を掲げる君主がシャリーアに基づいて課すものであった。
 
ジズヤの復活には宮廷内で賛否が分かれ、帝国の盟友であるラージプートの有力者らからは陳情を求める形で発令を見合わせるよう上奏があった。だが、アウラングゼーブはウラマーらの建議を受け、その意見に従う形でジズヤを復活した。妥協案として、帝国軍に軍籍のある者はジズヤを免除されるという条項を付加し、これによりラージプートとの同盟は依然と同様に維持されると考えた。
===諸地方の反乱・デカン地方における統治===
[[File:Portrait of 'Alamgir in old age.jpg|thumb|right|アウラングゼーブ]]
だが、このようにアウラングゼーブが帝国の領土を拡大しているにもかかわらず、1680年代から[[1690年]]にかけて、北インド各地では農民やザミーンダールなど人々の反乱が相次いだ<ref name="p244">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.244</ref>。なぜなら、かねてからの重税に加え、デカン戦争による莫大な戦費がさらなる負担として人々の肩に重くのしかかかり、その生活が困窮したからであった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.178</ref>。
 
すでに、1680年代にはアーグラ周辺の[[ジャート族]]が重税に抗議して反乱を起こすようになり、デリーとデカンをつなぐ公道を旅する旅人や商人の隊列を略奪するようになった<ref name="p244"/>。[[1691年]]以降、ジャート族は[[チューラーマン]]に率いられて反乱を起こし、アーグラの西の[[バラトプル]]を拠点に半独立の政権を持つようになった。
 
1690年代、ベンガルでも深刻な反乱が起こり、反乱勢力は最大時には歩兵60000人、騎兵10,000人で各地を荒らし、ベンガルの農作物がデカンに届かないという事態に陥った<ref name="p244"/>。アウラングゼーブはこれを解消するため、孫の[[アズィーム・ウッシャーン]]とその補佐[[ムルシド・クリー・ハーン]]をベンガルに送り<ref name="p244"/>、[[1698年]]にこの反乱を鎮圧したが、ベンガルは長く続いた反乱のため疲弊した。
 
一方、デカン地方では、アウラングゼーブがビジャープル王国とゴールコンダ王国の旧領にムガル帝国の行政制度を敷こうと尽力していた<ref name="p244"/>。だが、ゴールコンダでは比較的たやすく進行したが、マラーター王国領に隣接していたビジャープルではその妨害を受け、なかなか思い通りにならなかった<ref name="p244"/>。というのも、マラーター王国の武将はラージャーラームに付き従ったものもいれば、デカンに残った者もおり、彼らはマラーター王の檄で帝国に交戦していた<ref name="p244"/>。
 
また、帝国の領土が拡大したことにより、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国、マラーター王国の支配者層が貴族([[マンサブダール]])に取りたてられた<ref name="p244"/>。ビジャープル王国及びゴールコンダ王国に属していたものが64人、マラーター王国に属していたものが96人で、貴族全体の16パーセントを占めた。だが、マラーターの貴族はラージプートの貴族とは違い、高度なペルシアの洗礼も受けることもなく、宮廷に出ることもなかった<ref name="p244"/>。この貴族層の膨張はデカン戦争の出費と相まって、結果的に貴族全体の給与の大幅な減少につながった<ref name="p244"/>。
 
===マラーターとの泥沼の戦いと帝国軍の疲弊===
1681年以降、アウラングゼーブが帝都デリーに戻らずに治世の後半をデカン戦争に費やしたことによって、帝国の重心はアウランガーバードを中心としたデカンに移り、それから生み出される影響は大きかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.243-244</ref>。特に、[[17世紀]]末から[[18世紀]]初頭、アウラングゼーブはマラーターと激しい戦争を行い、帝国の統制と権威は北インドの及ばなくなった。帝国に仕える者はデカンと北インドに分けられ、北インドで仕える者はほとんど宮廷に出仕しなくなり、なかにはマラーターと手を結ぶものも現れた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.244-245</ref>。アウラングゼーブが信頼していたウラマーもまた、徴税官と同じようにジズヤから得られた税を着服し、国庫に税が届かなくなった<ref name="p254"/>。行政機構は壊滅し、帝国の財政を担ってきた北インドは荒廃して悲惨な状況であり、財政は年を追うごとに悪化した<ref name="p254"/>。
 
また、[[17世紀]]を通して、[[イギリス]]は[[マドラス]]、[[ボンベイ]]、[[カルカッタ]]を、フランスは[[ポンディシェリー]]、[[シャンデルナゴル]](チャンダンナガル)をそれぞれ獲得し、18世紀初頭になると両国はインドの植民活動に乗り出そうとしていた<ref name="p244"/>。1690年代にはアウラングゼーブは[[ボンベイ]]でイギリス国王の肖像を刻んだルピー硬貨の鋳造を止めれず、1702年になるとアウラングゼーブの臣下が[[マドラス]]で権力を行使できなくなっていた<ref name="p244"/>。
 
===後悔と最期===
アウラングゼーブはマラーターに応戦しつづけたが、[[1705年]]5月に手足に激痛を感じて倒れ、12日間公に姿を見せることはなかった<ref name="p245">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.245</ref>。アウラングゼーブは回復したが、老齢による衰えは隠せずにデリーに帰還することにしたが、[[1706年]][[1月31日]]からデカンの[[アフマドナガル]]にとどまった<ref name="p245"/>。
 
5月、アフマドナガルではマラーターとの間で激しい攻防戦が行われた。だが、マラーターはアフマドナガルを落とせず、そのため地方に展開した<ref name="p257">クロー『ムガル帝国の興亡』、p.257</ref>。9月になるとマラーターは一段と攻撃の手を強め、治安の悪化からアフマドナガルに入れる者はいなくなってしまった<ref name="p257"/>。アウラングゼーブはマラーターとの講和にも失敗し、「もはや自身に残されたのは神のみ」と語ったいう<ref name="p257"/>。
 
アウラングゼーブはその晩年、自分の統治は誤りであると思うようになり、死後にかつて自身が争ったように息子らの間で皇位継承戦争が起こるのではないか心配するようになったという<ref name="p245"/>。そのためか、アウラングゼーブは死の2週間前、三男アーザムと五男[[カーム・バフシュ]]を別々の任地に送った<ref name="p245"/>。フランシス・ロビンソンは「鎖を解かれた2匹のライオンを一緒にしておくわけにはいかなかった」と述べている<ref name="p245"/>。
== 人物・評価 ==
[[File:Aurangzeb in old age 2.jpg|thumb|[[コーラン]]を読むアウラングゼーブ]]
アウラングゼーブは先述したように若年よりスンナ派に沿った生き方をし続けた人間であり<ref name="p236"/>、サティーシュ・チャンドラは「生きた聖者」<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.348</ref>、ウィリアム・ノリスは「宗教に全てを捧げたムガル王」とさえ呼んでいる<ref>スブラマニヤム『接続された歴史 インドとヨーロッパ』、p.253</ref>。[[近藤治]]は、アフマド・シルヒンディーの思想がアウラングゼーブの考えた方につながり、ひいてはその統治に大きな影響を与えたと述べている<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.178</ref>。アウラングゼーブの書簡の中で最も多い話題は、神([[アッラー]])への恐れであった。また、アウラングゼーブはその生涯で数度にわたって自らコーランの書写を行っている。
 
アウラングゼーブの私生活は禁欲主義に基づいて、宝石はほとんど身に着けず、値段の安い服を着ている質素倹約なものであった。そればかりか、自ら作った貴族のために作った帽子、装飾文字で書かせた自身のデリー近郊にあった小さな農場などから得られる僅かな収入だけで私生活を賄おうとした<ref name="p236"/>。彼はペルシア語の詩作を趣味とし、良馬を好み、果実を好物としていた。
 
アウラングゼーブは皇位継承戦争のおいては3人の兄弟を抹殺する非情な手段をとったが、
帝位が盤石になると人間味を表し、とりわけ身分の低いものには見せるようになった<ref name="p236"/>。アウラングゼーブはもともと謙虚で、自分に厳しく他者の弱点には寛大な人物であった<ref name="p236"/>。ただ、アウラングゼーブが血塗られた勝利を得たことで、多くのヒンドゥー教徒やイスラーム教徒に悪評を加えさせてその悪名を定着させ、怪物に仕立て上げようとしたが、その実像はかけ離れたものであったという<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.234-235</ref>。
 
また、アウラングゼーブは若いころに一度だけヒンドゥーの踊り子に情熱的な恋をし、音楽といった快楽を求め続けるような生活をしていたことがあった<ref name="p236"/>。フランシス・ロビンソン曰く、その踊り子が死ぬことさえなければ、そういう快楽に溺れたままであったかもしれないという<ref name="p236"/>。
 
シャー・ジャハーンの治世とは違い、アウラングゼーブの治世に文化は衰退した。建築は宗教関係に限られ、宮廷にいた[[ムガル絵画]]の画家集団は解散させられ、[[ヒンドゥスターン音楽]]への保護も打ち切られた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.237</ref>。アウラングゼーブが帝国の文化事業に終止符を打ったのは、シャー・ジャハーンやダーラー・シコーがその保護者であったからと考えられている。しかし、宮廷にいたムガル絵画の画家はラージプート諸王国に仕え、[[ラージプート絵画]]の発展に寄与し、[[18世紀]]にラージプート絵画が最盛期を迎える端緒をつくった。
 
アウラングゼーブは[[アクバル]]帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラーム教徒と非イスラーム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、[[シャリーア]]の厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを護教者とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中から[[ムスリム]]と[[ズィンミー]]という二元的関係に基づく不平等の共存を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもっている。
 
[[パキスタン]]では建国の経緯からイスラーム復古主義と世論の親和性が強く、アウラングゼーブは国民的英雄とされており、[[インド]]で[[アクバル]]が尊敬されているのと対照的である。
{{ムガル帝国皇帝|第6代:1658年 - 1707年}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:あうらんくせえふ}}
[[Category:ムガル帝国の君主]]
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