「メーヌ・ド・ビラン」の版間の差分

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== 生涯==
1766年11月29日、フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビランは[[フランス]]南部、[[ボルドー]]に近い小都市[[ベルジュラック]]で生誕。家庭は祖父も曾祖父も市長を務めたベルジュラックの名家で父親は医師だった。<ref name=f>[[:fr:Maine_de_Biran]]</ref> 家庭で15まで教育を受け、その後同じフランス南部の[[ペリグー]]にある[[コレージュ]]で古典を学んだ。<ref name=a>『哲学の歴史6』602-604頁.</ref>
[[File:Jacques Bertaux - Prise du palais des Tuileries - 1793.jpg|thumb|左|フランス革命([[8月10日事件]]1792年)]]
1784年(18)、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の近衛兵となり、[[フランス革命]]初期の1789年10月には[[ヴェルサイユ宮殿]]で国王を護衛し負傷した。近衛兵が解散され、フランス革命後の[[ジャコバン派]]による恐怖政治が始まると故郷へ戻り、自然科学や哲学の勉強に沈潜した。この時期ビランはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めている<ref name=f />。
[[File:Bouchot - Le general Bonaparte au Conseil des Cinq-Cents.jpg|thumb|230px|ブリュメール18日のクーデタ(1799.11.09). 議員たちの抵抗をうけるナポレオン]]
1794年[[テルミドールのクーデター]]により恐怖政治が終わると、地方行政と関わるようになったビランは行政官になり、1797年には[[五百人会]]議員に選ばれたが、同年、ナポレオン・ボナパルト配下の[[擲弾兵]]団がパリに呼び寄せられ(ナポレオン自身は行かなかった)[[総裁政府#フリュクティドール18日のクーデター|フリュクティドール18日のクーデター]]が起きるとビランは王党派として(ビランは一貫して穏健な立憲王政の支持者だった)当選を取り消された。<ref name=a />
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