「経 (仏教)」の版間の差分

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言語的には、[[パーリ語]]・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、[[中国語|漢語]]、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[満州語]]のものがあり、[[西夏語]]のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。
 
また、経・律・論および、その注釈書などは、'''大蔵経'''もしくは'''一切経'''と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき経典のリストとセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。[[昭和]]9年([[1934年]])に、日本で編纂された[[大正新脩大蔵経]]は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。
 
== パーリ語経典 ==
 
=== 日本 ===
日本では、『[[日本書紀]]』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、経典の収集、写経、読誦をしめす<ref name="sueki">{{Cite |和書 |author = 末木文美士 |title = 日本仏教入門 |date = 2014-03-21 |publisher = KADOKAWA/角川学芸出版 |isbn = 4047035378 }}</ref>。[[竹内亮]]によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、その構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は[[玄ボウ|玄&#x6609;]]によるもの(後述)が初めてと推定され、[[光明皇后]]がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての経典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、更には注釈書(章疏)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が"手に入る限り一切の(仏教)経典"という意味に読み替えられていたのではないかと推測している<ref>竹内亮「大寺制の成立と都城」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1280-5 P96-98</ref>。
 
とくに、[[天平]]7年([[735年]])[[玄ボウ|玄&#x6609;]]が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。
寛和2年(986年)に[[ちょう然|奝然]]は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に[[藤原道長]]に渡り[[法成寺]]経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる<ref name="sueki"/>。平安時代末から鎌倉時代にかけては、[[栄西]]、[[俊乗坊重源|重源]]、[[慶政]]その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、[[大内氏]]の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)<ref name=suda>須田牧子「大蔵経輸入とその影響」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026227-9 (原論文:2007年)</ref>。