「松前慶広」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
39行目:
慶長14年(1609年)に[[猪熊事件]]が起きて[[近衛府|左近衛少将]]・[[花山院忠長]]が蝦夷・[[上ノ国町|上ノ国]]に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めるとともに、松前に京都の公家文化をもたらした<ref>『郷土史事典 北海道』p33</ref>。
慶長15年([[1610年]])と慶長17年([[1612年]])の二回にわたり
慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣|大坂夏の陣]]には徳川方として参陣した。なお、慶長19年([[1614年]])に[[豊臣氏]]に通じたとして、親豊臣派であった四男・[[松前由広|由広]]を誅殺している。
49行目:
== 参考文献 ==
*「松前藩」
* 日置英剛編『新・国史大年表』第4巻 (一四五六~一六〇〇)
*「島主松前藩の成立」
*「武田家中興の祖松前慶広」
* [[宮本義己]]
* 宮本義己
== 脚注 ==
|