「センウセレト3世」の版間の差分

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父王[[センウセレト2世]]はその治世中、各州を治める[[州侯]]たちに寛容な[[政策]]を行い、歩み寄る姿勢を見せていた。だがその結果、息子であるセンウセレト3世が即位した時、州侯達の権力は再び王権を脅かすようになっていた。彼はこれに対抗して新たな国家制度の構築を試みた。全国土を北、南、最南の三つに分割し、それぞれに高官会議を設置して州侯の統制を図った。その結果、州侯の権力を大幅に抑えることに成功し、内政の安定化が実現した<ref>[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p.108</ref>{{refnest|group="注釈"|州侯の弱体化と、その建造物の縮小化は長くセンウセルト3世が彼等の権力を粉砕した結果であると信じられてきたが、近年では中央の宮廷の活動が活発になった結果、地方の宮廷の存在が色褪せた事による間接的な結果に過ぎないとする見解も出てきている<ref>[[#ドドソン, ヒルトン 2012|ドドソン, ヒルトン 2012]], p.91</ref>。}}。
 
内部の脅威が取り除かれた後、センウセレト3世は対外政策に力を入れるようになる。新たな交易ルートを開拓し、新たな資源の採掘地を確保するための[[ヌビア]]遠征が断続的に行われた。その一貫として第一急端に掘られていた[[運河]]の拡張工事も行っている。遠征はいずれも成功を納め、センウセレト3世は歴代の王たちの誰よりも広大な領土を獲得し、国境線を押し広げた王となった<ref>[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p.109-p.110</ref>。遠征で得られた富の多くは国内の建築事業に充てられた。[[カルナック]]の北にあるメダムードに[[モンチュ|メンチュ]]神に捧げる大[[神殿]]を建立した。そして、[[ダハシュール]]に建造された王の[[ピラミッド]]は底辺が107メートルという、第12王朝で最大規模のものである<ref>[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p.111</ref>。
 
治世の後半には息子の[[アメンエムハト3世]]が共同統治者に任命され、父の死後に後を継いだ。