「小野寺秀和」の版間の差分

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[[寛文]]末から[[延宝]]初年ごろの間に灰方佐五右衛門の娘の丹と結婚したが、この丹と十内は仲睦まじいことで知られ、丹の妹の"いよ"も、十内の養女に迎えられている。十内は[[武道]]のみならず[[和歌]]、[[古典]]、[[儒学]]にも通じ、[[元禄]]7年([[1694年]])に京都留守居役を拝命したのを機に、京で儒者[[伊藤仁斎]]に経史を学び、さらに夫婦で歌人[[金勝慶安]]に師事して数々の和歌を残している。
 
[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日、主君[[浅野内匠頭長矩|浅野長矩内匠頭]]が[[江戸城]]松之大廊下で[[吉良義央|吉良上野介]]に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日[[切腹]]、赤穂藩は[[改易]]と決まった。[[京都市|京都]]でこの凶報に接した十内は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で[[赤穂市|赤穂]]へ駆けつけた。[[赤穂城]]開城では[[大石良雄|大石内蔵助]]の右腕として活動。[[江戸幕府|幕府]][[目付]][[荒木正羽|荒木十左衛門]]、[[榊原政殊|榊原采女]]の接待役にあたった。
 
赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻った。基本的にはその後も大石内蔵助派(お家再興優先派)として行動し、7月に内蔵助が浅野長矩の親族である[[戸田氏定|戸田采女正氏定]]([[大垣藩]]主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道している。その後、[[浅野長矩]]実弟[[浅野長広|浅野大学]]に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石内蔵助は仇討ちを確定し、元禄15年([[1702年]])10月に十内も[[瀬尾孫左衛門]]とともに江戸へ下り、大石内蔵助の嫡男[[大石主税]]や養子幸右衛門と麹町中村宿宅にて同居した。偽名として仙北十庵と名乗る。
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