「松前道広」の版間の差分

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対外的には強硬で、[[ロシア帝国|ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱([[クナシリ・メナシの戦い]])に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した。のち寛政8年([[1796年]])、[[イギリス]]船・[[ウィリアム・ロバート・ブロートン#プロヴィデンス号の航海|プロビデンス号]]がアプタ沖(現北海道[[虻田郡]][[洞爺湖町]])に出没した時も、すでに隠居していたにも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣した<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.244、なお道広は自身を「北方の守護者」と認識していたという(「松前大炊介殿示家臣書」([[東京大学史料編纂所]]蔵))</ref>。
 
寛政4年([[1792年]])10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。隠居後、通称を大炊頭、美作守に改める。文化4年([[1807年]])3月26日、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.245、『松前町史 通説編』第1巻下</ref>。文政5年([[1821年]])3月18日、謹慎を解かれる。天保3年(1832年)6月20日、[[江戸]]で死去。享年79
 
== 参考文献 ==
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