「波照間島」の版間の差分

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有人島として日本最南端の島であるとともに、[[民間人]]が日常的に訪問できる日本最南端の地<ref>領土としての日本最南端は[[東京都]][[小笠原村]]の[[沖ノ鳥島]](北緯20度25分31秒)だが、ほかの有人島から遠く離れた[[フィリピン海]]に浮かぶ無人の孤島であり、満潮時には大半が海面下になる小さな環礁である。定期航路もないため、民間人が訪れることは極めて困難である。</ref>でもあり、「日本最南端の碑」と「日本最南端平和の碑」が建てられている。また、島内にある[[波照間郵便局]]は「日本最南端の郵便局」である。
 
緯度が低く、日本国内では[[みなみじゅうじ座|南十字星]]を好条件で観測できる数少ない島であり、高那崎に程近い島の南海岸には星空観測タワーが立っている。周囲に人工的な灯りが極めて少ないため、他の場所では見えにくい[[]]を肉眼で観測することができる。同タワーには200mmの屈折式[[天体望遠鏡]]や[[プラネタリウム]]があり設置され、[[観光客]]見学可能である。
 
波照間島のさらに南に「[[南波照間島]]」(パイパティローマ)があるという[[伝説]]がある。重税から逃れるため、[[1648年]]に島人が南波照間島に渡ったという伝聞が、琉球王府の記録である『八重山島年来記』に記されている<ref>「石垣市史叢書13 八重山島年来記」p28 石垣市 平成11年2月13日発行</ref>。
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== 歴史 ==
波照間島に人が住み始めたのは[[西表島]]に次いで2番目に早かったと推定されている。それは[[下田原貝塚]]に残る痕跡からも確認されて、3700年前まで遡るとされる。遺跡から出土した[[土器]]は「下田原式土器」と呼ばれ、[[八重山]]地域の文化は[[縄文文化]]の圏外で、[[インドネシア]]系文化と深い関係があったと推測される<ref>[[金関丈夫]]・[[国分直一]]・多和田真淳・永井昌文「琉球波照間島下田原貝塚の発掘調査」『[[水産大学]]研究報告人文学編』第9号、1964年</ref>。しかし、この後人の生活の痕跡は途絶え、3~12世紀頃の無土器文化までの間が空白になっている。下田原貝塚のすぐそばにあったこの文化は、[[フィリピン]]系文化との関連性が指摘されている。14~15世紀に至ると、[[群雄割拠時代]]に入り八重山は[[中国]]や[[日本]]との私貿易で力を付けるようになる。波照間でも競合が起こり、独自貿易の結果、下田原城、マシク村のような要塞集落が築かれる。また、このころには、オヤケ・アカハチ、[[長田大主]]など歴史に残る[[英雄]]も輩出する。
 
しかし、[[沖縄本島]]の統一を成し遂げた[[琉球王府]]が西へと進出、ついには[[1500年]]、[[オヤケ・アカハチ]]が琉球王朝側に付いた宮古の[[仲宗根豊見親]]に破れ、八重山は琉球王府の支配下に入った。[[17世紀]]には琉球王府が[[薩摩藩]]の支配下に置かれると[[人頭税]]制度が導入され、過酷な支配の始まりとなり、重税から逃れるため[[パイパティローマ]]をめざし、島を離れる人々の伝説も残されている。さらに[[18世紀]]に入ると、[[島分け]]がたびたびおこなわれるようになり[[明和大津波]]で壊滅した集落の復興という名目で他島への強制移住が実施された。[[19世紀]]後半に至り、[[明治政府]]により琉球王国が日本へ編入されるが、その後も人頭税は課され[[20世紀]]に至りようやく廃止された。また、波照間島は[[首里]]から最も離れた島であったため、[[政治犯]]などの[[流刑地]]でもあったとされる<ref name="rim"></ref>。
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[[1960年代]]までは[[カツオ]]漁がさかんで、[[鰹節]]に加工して出荷していたが、現在[[漁業]]専従者は一桁となる。就業人口の半数が[[農業]]に従事し、かつては[[米]]や[[粟]]が作られたが、1960年代初頭に[[サトウキビ]]栽培への転換が進み、現在島の主力産業は[[製糖]]である。一方で[[スイカ]]、[[メロン]]、[[パッションフルーツ]]、[[モチキビ]]などの栽培も試行されている。[[2001年]]には、75億円の事業費と22年間の歳月を費し土地改良([[ほ場整備]])事業が完了し、島は一面のサトウキビ畑となる。[[ヤギ]]が[[2005年]]調査時で登録数で411頭、さらに野生のヤギがその数倍いるといわれる。また[[和牛]]の飼育も約30戸ほどが行い、2005年当時で500数十頭を飼育している。島内の唯一の[[酒造所]]である[[波照間酒造所]]では、[[泡盛]]の中でも、製造量が少なく入手困難なことで有名な「[[泡波]]」という銘柄を生産している<ref name="awanami">[http://awanami.net/ 波照間酒造所公式サイト]</ref><ref name="rim">[http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/info.html 波照間島あれこれ - 波照間島の概要ー日本最南端の島]</ref>。
 
[[1990年代]]半ばまでは[[宿泊施設]]は[[民宿]]が7軒しかなく、観光地化されていなかったが、その後観光客が急増し、民宿は約倍に増え、さらに[[ペンション]]、[[ホテル]]も開業した。 入域観光客数は[[1987年]]の3700人ほどであったものが、[[1991年]](平成元年)から[[2005年]](平成17年)ま14000は13,0000と、~14,000人([[19871998年]]~[[2001年]]の3700人3年間比較限っては急増20,000人以上を超える年もあった)と6倍以上に増えた状態で安定して推移したていたが、[[2007年]](平成19年)から20,000人以上に急増し[[2016年]]は過去最高の36,000人に上った(ちなみに[[竹富島]]4148万人、[[西表島]]3533万人)<ref name="town.taketomi">[http://www.town.taketomi.lg.jp/town/index.php?content_id=53 竹富町公式サイト - 平成元年~平成28年 竹富町入域観光客数(年別)]</ref><ref name="rim"></ref>。
 
=== 海岸 ===
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File:2015-12-17 Haterumajima akahachi オヤケアカハチ誕生の地 DSCF2570.JPG|オヤケアカハチ誕生の地
ファイル:nishihama.JPG|[[ニシ浜]]ビーチ
ファイル:2015-12-18 Pemuchi-Beach,Hateruma,Okinawa 波照間島ぺムチ浜 DSCF3525.jpg|有人島の名の付けられたビーチでは、日本最南端。
File:2015-12-17 Haterumajima、Ryukyu-gawara 波照間島の琉球瓦屋根民家 DSCF2558.JPG|[[八重山諸島]]の中でも比較的かつての伝統的建築の趣がよく残された赤瓦の家が多い。
File:2015-12-17 kukuru cafe、Haterumajima 日本最南端カフェ「ククルカフェ」DSCF2495.JPG|日本最南端に位置するため「日本最南端」を標榜する店舗や[[郵便局]]、[[民宿]]などがある。写真は「日本最南端」のカフェ「ククルカフェ」。
File:2015-12-17 Asystasia gangetica、Haterumajimaキツネノマゴ科コロマンソウ DSCF2525.JPG|[[コロマンソウ]](キツネノマゴ科)
File:2015-12-17 Haterumajima Gaillardia on the road 波照間島路傍の花々「ガイラルディア」 (Gaillardia) 別名:テンニンギク(天人菊) DSCF2689.JPG|「[[ガイラルディア]]」 別名:テンニンギク
ファイル:2015-12-18 Danaus genutia(スミグロカバマダラ)Pemuchi-Beach,Hateruma,Okinawa 波照間島ぺムチ浜 DSCF3548☆彡.jpg|蝶の宝庫でもある。[[ぺムチ浜]]に多く見られる[[スジグロカバマダラ]](2015年12月18日)。
File:2015-12-17 Haterumajima Goat on the road 波照間島のヤギ DSCF2713.JPG|集落を外れると見渡す限りに農地が広がり[[ヤギ]]が多く飼われているほか、野生のヤギもいる。
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