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[[後漢]]末期、[[陶謙]]が[[揚州]]とともに支配し割拠するが、彼の死後は[[曹操]]・[[呂布]]・[[劉備]]・[[袁術]]らが徐州地方の彭城国や下邳国をめぐり争奪戦を繰り広げた([[下邳]]を参照)。[[三国時代 (中国)|三国時代]]には[[魏 (三国)|魏]]により'''徐州'''が設置されている。また曹操は陶謙の部下に父を殺され徐州で住民の大虐殺を行った。
 
[[411年]]([[義熙]]7年)、[[東晋]]により'''北徐州'''が設置されている。晋末になると、彭城・綏輿里(現在の[[銅山県]])の出身の[[劉裕]](後に東晋を簒奪し、南朝の[[宋 (南朝)|宋]]の武帝となった)は反乱鎮圧の功績で王朝内で勢力を強め、南北の境に位置する彭城を前線基地に[[410年]]・[[417年]]と二度の[[北伐]]を開始して[[南燕]]・[[後秦]]を滅亡させた。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]になると[[421年]]([[ (南朝宋)|]]2年)に[[宋 (南朝)|宋]]により北徐州は'''徐州'''と改称され、その後彭城地方は[[北魏]]と南朝諸国の両方の橋頭堡と化した。
 
[[隋|隋朝]]が成立すると徐州け経由して[[大運河]]が建設され南北を結ぶ物流の要衝となった。[[大業]]年間には'''彭城郡'''と改称されたが、[[唐|唐朝]]が成立すると[[621年]]([[武徳]]元年)に再び'''徐州'''と改称された。その後[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)に'''彭城郡'''、[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)に再び'''徐州'''と改称されている。唐末の[[ホウクンの乱|龐勛の乱]]([[868年]])では反乱軍が彭城で唐軍と対峙している。[[宋 (王朝)|宋代]]には[[文人]]の蘇軾が徐州太守に任ぜられ、如黄楼、快哉亭、放鶴亭、東坡石床、[[蘇堤]]など今日に残る多くの歴史建造物を作っている。北宋末期になると[[金 (王朝)|金]]の将軍、[[粘没喝]]は軍を率いて徐州に侵攻している。