「淑嬪崔氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
JapaneseA (会話 | 投稿記録)
Dr jimmy (会話 | 投稿記録)
12行目:
 
== 生涯==
[[本貫]]は海州。後日、領議政を追贈された{{仮リンク|崔孝元|ko|최효원}}の娘として、1670年に生まれた。粛宗2年に7で入宮したとされている。宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、実際には針房(チムバン、침방)に所属していた宮女である。[[1689年]]、[[仁顕王后]]閔氏が廃位され[[禧嬪張氏]]が王妃となった。その後、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン、승은상궁。正五品相当。1692年4月22日以降。正確な時期はわかっていない)になり、粛宗19年([[1693年]])4月26日に淑媛(スグォン、숙원。従四品相当)になる。その年、王子を産むが、2ヶ月で亡くなる。{{仮リンク|甲戌換局|ko|갑술환국}}で仁顕王后が復位された年([[1694年]])9月13日、延礽君(ヨニングン、연잉군)、後の朝鮮の21代国王の英祖を産んだ。同じ年(1694年)6月2日に淑儀(スグィ、숙의。従二品相当)になる。粛宗21年([[1695年]])6月8日に貴人(クィイン、귀인。従一品相当)になる。粛宗24年([[1698年]])7月7日に子を産むが3日で亡くなる。粛宗25年([[1699年]])6月13日に前年復位した、第6代朝鮮王[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]祝賀して正一品相当の淑嬪(スクビン、숙빈)となる。1701年10月から1704年4月の間に本宮の昌徳宮(チャンドックン、창덕궁)を離れて、梨峴宮(イヒョングン、이현궁)に居所を移す。梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン、숙빈방)と呼ばれるようになる。粛宗37年([[1711年]])6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子・延礽君の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す。1716年ごろから急に病がちになり、私邸で療養していたが、 1718年3月息子・延礽君の私邸で亡くなる。享年49。
 
== 家族 ==