「市制特例」の版間の差分

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[[明治政府]]が当時「市民」(有権者)とみなしていたのは[[ブルジョワジー|有産者]]であったが、[[寄生地主]]や[[製糸業]]者などの[[富裕層]]が多い[[地方]]に比べ、大都市では[[プロレタリアート|無産階級]]がそのほとんどを占め、政府が「市民」とみなす層が薄かった。
 
市制施行の翌年、[[1890年]](明治23年)に行われた[[第1回衆議院議員総選挙]]では、[[東京府]]の人口162万8551人に対して有権者は5715人であり、全府県中で人口対有権者数比が最小(0.35%)であった。人口対有権者数比が最大(2.30%)の[[滋賀県]]では、人口67万1788人(人口比で東京府の41.3%)に対して有権者数1万5456人(東京府の2.7倍)であったことに鑑みると、三市のような大都市では、少ない富裕層たちの利権によって市会運営が左右される危険性が高く、一般市と同列の制度導入は[[独裁政治]]を生じ易かった。
 
国政よりも有権者を広げた場合では、市会に[[自由民権運動]]の影響力が強くなり、[[日本]]の中枢を支える三市が混乱する恐れがあったため、明治政府は三市を強い管理下に置く必要があると考えた。しかし、[[帝国議会]]設立により、自由民権運動の主舞台は帝国議会になっていったため、三市特例の意義は急速に薄れていった。