「クロード=アドリアン・エルヴェシウス」の版間の差分

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徴税請負人の時代に詩作を始めて[[ヴォルテール]]の指導を受けていたが、徐々に哲学へ関心を移していった<ref>{{Cite journal|和書|author=森村敏己|date=1990-8|title=エルヴェシウスにおける奢侈論の形成|journal=一橋論叢|volume=104|issue=2|page=148|publisher=日本評論社|issn=00182818|naid=|format=http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/11021/1/ronso1040200570.pdf|accessdate=<small>2015-8-19</small>|ref= }}</ref>。
 
最初の著作『精神論』は、国王の出版許可を得て1758年7月に刊行されたが、その直後に反道徳的としてカトリック陣営から強い批判があり、同年8月出版許可が取り消され、公けに販売することができなくなった。しかしこの問題はその後さらに拡大し、11月、パリ大司教[[クリストフ・ド・ボーモン|ボーモン]]によって弾劾され、翌年1月、刊行中の『[[百科全書]]』などとともにパリ[[高等法院 (フランス)|高等法院]]に告発された。判決は、告発された書籍の内容に応じて出され、『精神論』は2月に焚書処分の裁定を受けた。この間、エルヴェシウスは自己批判の撤回文を数度公開した。これに続いて同年5月には、パリ大学神学部によって断罪された。一方、この騒動のあおりを受けて、『百科全書』も出版を継続することができなくなった。『精神論』出版許可取消にはじまる一連の出版弾圧は、「精神論事件」として知られている<ref>'Correspondance générale d'Helvétius' vol. 2 </ref>。
 
これらの騒動にもかかわらず、1759年5月には、ドズリーによって『精神論』の英訳が出版され、エルヴェシウスの思想イギリス思想界にも影響を与えた。ただし、『精神論』刊行当時は英仏[[七年戦争]]の最中であり、エルヴェシウスが渡英して[[デヴィッド・ヒューム|ヒューム]]らイギリスの知識人と直接会うのは七年戦争終結後のことである。