「アパルトヘイト」の版間の差分

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[[画像:Apartheid.jpg|サムネイル|[[英語]]と[[アフリカーンス語]]で、白人専用と書かれた海水浴場の看板。犬の標識は、犬の連れ込み禁止を意味する。]]
[[画像:Anti-Apartheid Protest 02 F.jpg|サムネイル|アパルトヘイトへの抗議を行う黒人たち([[1980年代]])]]
===アパルトヘイトという用語について===
大もとは[[17世紀]]以来のものであるが、アパルトヘイトという言葉は、[[1913年]]の「{{仮リンク|原住民土地法|en|Natives Land Act, 1913}}」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。
 
===法令===
{{main|:en:Apartheid legislation}}
アパルトヘイトという言葉は、こう[[1913年]]の「{{仮リンク|原住民土地法|en|Natives Land Act, 1913}}」に登場する。かし、広く使われ始めのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。アパルトヘイトとは、上記のような[[南アフリカ連邦]]時代から続く人種差別思考の上になりたつ様々な差別立法を背景に[[1948年]]の純正国民党政権誕生によって確立された政策方針のことである。この方針に基づいて、「{{仮リンク|集団地域法|en|Group Areas Act}}」「[[人口登録法]]<ref group="注">「[[人種]]」は、皮膚の色、爪の甘皮、虹彩の色、染色体、髪の毛のちぢれ方などによって決められた。</ref>」「{{仮リンク|投票者分離代表法|en|Separate Representation of Voters Act, 1951}}」「{{仮リンク|バンツー教育法|en|Bantu Education Act, 1953}}」「{{仮リンク|共産主義鎮圧法|en|Suppression of Communism Act, 1950}}」「{{仮リンク|テロリズム法 (南アフリカ)|en|Terrorism Act, 1967|label=テロリズム法}}」などが制定された。
 
===選挙権===
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===シャープビル虐殺事件と運動の沈静化===
1960年には[[パス法]]に反対する集会をPACが企画し、ANCも合流。そこに集まった群衆に軍が発砲し、[[シャープビル虐殺事件]]が勃発した。これにより、政府は両党を非合法化し、活動家を次々と逮捕していった。マンデラは1962年、シスルは1963年に逮捕され、[[ケープタウン]]沖の[[ロベン島]]の[[刑務所]]へと送られた。生き残った活動家は亡命し、[[テロ]]活動をおこなったものの、活動自体はやがて沈静化していった。
 
 
===国連総会===
[[国連総会]]は、[[1952年]]以降毎年非難決議を採択し、1961年には[[イギリス連邦]]が激しい非難をしたために同連邦から脱退するなど他国は絶えず差別的であるとみなしアパルトヘイトを非難し、1973年に[[国際連合総会]]で採択された国際条約において[[人道に対する罪]]と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトが他国のこれらの非難の影響を受けることはなかった<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|pp=373-374}}</ref>(それ以降は影響を受けることになり、最終的に廃止された)。
 
===ビコとソウェト蜂起===
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反アパルトヘイト運動が再び活発化したのは、[[スティーヴ・ビコ]]の登場からである。[[1968年]]、ナタール大学の学生だったビコは黒人だけの学生組織「南アフリカ学生機構」を結成し、黒人解放運動を開始した。ビコは黒人意識運動を提唱し、白人人種主義のすべての犠牲者への連帯をよびかけた。[[1973年]]にはビコの言論活動が禁止されたものの、ビコは各種プロジェクトを通じて実践をおこない、黒人意識運動は南アフリカ全土に広まっていった。この政治意識の高まりを背景に、[[1976年]]には[[アフリカーンス語]]の教育強制に反発した黒人が[[ソウェト蜂起]]を起こす。当時の[[バルタザール・フォルスター]]政権はこれを武力で弾圧したものの、この事件は国外のアパルトヘイトへの目をいよいよ厳しいものとし、また国内での抵抗運動はこれをきっかけに再び盛り上がっていった。
 
===オリンピック国際関係===
[[国連総会]]は、[[1952年]]以降毎年非難決議を採択し、1961年には[[イギリス連邦]]が激しい非難をしたために同連邦から脱退するなど他国は絶えず差別的であるとみなしアパルトヘイトを非難し、1973年に[[国際連合総会]]で採択された国際条約において[[人道に対する罪]]と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトが他国のこれらの非難の影響を受けることはなかった<ref>{{Harvtxt|レナード・トンプソン|1995|pp=373-374}}</ref>。[[オリンピック南アフリカ選手団]]は、アパルトヘイトへの制裁措置として[[1960年]]の[[ローマオリンピック]]を最後に[[近代オリンピック|オリンピック]]から締め出された。その後も、[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]からたびたび勧告を受けるも拒否し続けたため、[[1970年]]に除名処分を受けた。結果、人種隔離政策撤廃後の[[1991年]]にIOCから再承認を受け、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]で復帰するまで参加は認められなかった。また[[1976年]]の[[モントリオールオリンピック]]では、[[ニュージーランド]]の[[ラグビー]]チームが南アフリカ遠征を行ったにも関わらず大会参加を認められた事に抗議して、[[タンザニア]]をはじめアフリカ諸国22ヶ国による[[ボイコット]]が起こっている。
 
===1980年代からネルソン・マンデラ釈放まで===