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=== 城山決戦 ===
[[ファイル:Deathplace of SAIGO Takamori.JPG|thumb|南洲翁終焉之地の碑(鹿児島市城山町)]]
9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、[[城山 (鹿児島市)|城山]]を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、[[山野田一輔]]・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。また、敵である[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の中にも西郷を慕う者は多く、城山総攻撃の前夜には、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍楽隊]]が城山に向けて[[葬送曲]]を演奏し、市民も聞き入ったという。現代になっても、[[自衛隊]]の[[音楽隊 (陸上自衛隊)|吹奏楽団]]が、同じ日時に葬送曲を同じ場所で演奏している<ref>{{cite news |title=いつも主にあって喜びなさい 穂森幸一 |newspaper=[[クリスチャントゥデイ]]|date=2017-6-30 |url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/24026/20170630/homori-koichi-94.htm| accessdate=2017-7-1}}</ref>
 
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では[[小倉壮九郎]])が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。[[享年]]51(満49歳没)。