「老河口作戦」の版間の差分

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老河口作戦は順調だったものの、[[太平洋戦争|太平洋戦線]]で[[沖縄戦]]が始まった影響で、日本軍は中国戦線でも守備態勢への移行を図ることになった。4月17日、第12軍は占領地域の警備のため、隷下の各部隊から人員装備を抽出し、4個独立警備隊(各6個独立警備大隊)を編成した。一時は第110師団と戦車第3師団の[[上海市|上海]]方面への転用も決定されたが、後述の西峡口方面の戦闘拡大のために取りやめとなった。
 
日本軍右翼では予定の西峡口を3月29日に占領したものの、西方の重陽店を拠点とする中国第1戦区軍がなおも抵抗を続けていた。そこで日本の第110師団は、4月29日の[[天長節]]を期して第1戦区軍の包囲殲滅を図ったが、若干の打撃を与えた程度に終わった。日本軍は戦車部隊も支援に送ったが、燃料不足や山岳地形の影響で威力を発揮できなかった。中国軍は、[[M4中戦車]]などのアメリカ製の新式装備を有する部隊を反撃に投入し、第110師団を次第に圧倒した。6月下旬以降、日本軍は第115師団を救援に送って第一線を交代させ、陣地を構築しての持久戦態勢へと移行した。
 
牽制作戦を担当した第39師団は、[[荊門市|荊門]]から[[漢水]]西岸を北上して進撃し、[[襄州区|襄陽]]などを占領した。しかし、中国軍の反撃が激しくなり、日本軍全体方針の守備移行とあわせて後退し、占領地を放棄せざるをえなかった。