「織田長益」の版間の差分

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戦後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐した。このころ[[建仁寺]]の子院・[[正伝院]](現在の正伝永源院)を再建し、院内に茶室・如庵を設けた。正伝永源院には長益夫妻、孫・[[織田長好|長好]]らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男・頼長の娘)、兄・信包らの肖像画も伝わっている。[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]の際にも[[大坂城]]にあり、[[大野治長]]らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の[[織田頼長|頼長]]は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、[[大坂の役#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]を前にして再戦の機運が高まる中、家康・[[徳川秀忠|秀忠]]に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。
 
大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽斎本人は[[隠居]]料として1万石を手元に残した。元和7年([[1621年]])12月13日、京都で死去。[[享年]]7675
 
== 子孫 ==