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=== 治世前半の戦争と領土拡大 ===
{{main|ネーデルラント継承戦争|オランダ侵略仏蘭戦争}}
1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 141.</ref>。ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])であると考えられた<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 142-143.</ref>。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派の[[ヨハン・デ・ウィット]]が指導者となっており、古くからの大貴族である総督派の[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]が巻き返しを図ることを恐れていた。
[[ファイル:LeBrun_Louis_XIV_at_Douai_in_the_War_of_Devolution_1667.jpg|thumb|left|250px|帰属戦争におけるルイ14世。<br>シャルル・ルブラン画、1667年。]]
没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.148.</ref>。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],pp.149-150;[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.56-57.</ref>。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],p.84.</ref>。
 
[[ファイル:LeBrun_Louis_XIV_at_Douai_in_the_War_of_Devolution_1667.jpg|thumb|left|250px|帰属戦争におけるルイ14世。<br />シャルル・ルブラン画、1667年。]]
1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位して[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルド1世]]の婚約者[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]](マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた<ref name=hasegawa134>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.134.</ref>。これに対してルイ14世は[[ブラバント]](スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.135;[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],pp.84-85.</ref>。
没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 148.</ref>。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 149-150; [[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 56-57.</ref>。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], p. 84.</ref>。
 
1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位して[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルド1世]]の婚約者[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]](マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた<ref name=hasegawa134>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]], p. 134.</ref>。これに対してルイ14世は[[ブラバント]](スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]], p. 135; [[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], pp. 84-85.</ref>。
1667年に[[ネーデルラント継承戦争|帰属戦争]](フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍は[[フランドル]]国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],p.58.</ref>。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|ウィリアム・テンプル]]と交渉をし、[[1668年]]にイギリスそして[[スウェーデン]]との[[三国同盟 (1668年)|三国同盟]]を結成した<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.150;[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],p.85.</ref>。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]は断固として征服させた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.58-59.</ref>。結局、ルイ14世は[[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.59-60.</ref>。アーヘンの和約はフランスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.151.</ref>。
 
1667年に[[ネーデルラント継承戦争|帰属戦争]](フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍は[[フランドル]]国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 58.</ref>。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官[[ウィリアム・テンプル (準男爵)|ウィリアム・テンプル]]と交渉をし、[[1668年]]にイギリスそして[[スウェーデン]]との[[三国同盟 (1668年)|三国同盟]]を結成した<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 150; [[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], p. 85.</ref>。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]は断固として征服させた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 58-59.</ref>。結局、ルイ14世は[[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 59-60.</ref>。アーヘンの和約はフランスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 151.</ref>。
三国同盟は長続きしなかった。[[1670年]]、イギリス王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は[[ドーヴァーの密約|ドーヴァー秘密条約]]を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.61-62</ref>。次にルイ14世は、イギリスと同様な[[仏瑞同盟|同盟条約]]を結んでいたスウェーデンに参戦を促した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],p.62.</ref>。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだ[[デンマーク]]と[[ブランデンブルク=プロイセン]]の参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。
[[File:Louis14-C.jpg|thumb|275px|ライン川渡河作戦でのルイ14世。(1672年)<br>{{仮リンク|アダム・フランス・ファン・デル・ミューレン|label=ミューレン|en|Adam Frans van der Meulen}}画]]
[[1672年]]に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ([[オランダ侵略戦争]])<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.152;[[#金澤 1966|金澤 1966]],p.63.</ref>。オランダは海軍こそ名将[[ミヒール・デ・ロイテル|デ・ロイテル]]のもとで強力であったが、陸軍は弱体であった<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],p.64.</ref>。フランス軍は快進撃を続けて[[アムステルダム]]に迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.64-65.</ref>。譲歩による講和を図ったウィットは兄の[[コルネリス・デ・ウィット]]と共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],pp.152-153;[[#金澤 1966|金澤 1966]],p.65.</ref>。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.65-66.</ref>。
 
三国同盟は長続きしなかった。[[1670年]]、イギリス王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は[[ドーヴァーの密約|ドーヴァー秘密条約]]を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 61-62</ref>。次にルイ14世は、イギリスと同様な[[仏瑞同盟|同盟条約]]を結んでいたスウェーデンに参戦を促した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 62.</ref>。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだ[[デンマーク]]と[[ブランデンブルク=プロイセン]]の参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。
アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化する。[[神聖ローマ皇帝]]、ドイツ諸侯の一部そしてスペインがオランダと同盟を結び、この一方でイギリス議会では利益のない戦争であるとして反戦論が高まり、1674年にイギリスはオランダと和平を結んで撤退した<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],pp.153-154;[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.66-69.</ref>。オラニエ公は更にイギリスと結びつき、チャールズ2世の姪[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]と結婚もした。この事態にルイ14世はオランダから兵を引かせて、代わりにフランシュ=コンテに攻め込ませ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.69-70.</ref>。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で[[1678年]]に[[ナイメーヘンの和約]]が結ばれる<ref name=chiba154155>[[#千葉 1984|千葉 1984]],pp.154-155.</ref>。ルイ14世はスペインにフランシュ=コンテとフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダの占領地は返還し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのはもっぱらスペインであった<ref name=chiba154155/>。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランスの国際的威信を示した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]],pp.71-72.</ref>。
 
[[Fileファイル:Louis14-C.jpg|thumb|275px|ライン川渡河作戦でのルイ14世。(1672年)<br />{{仮リンク|アダム・フランス・ファン・デル・ミューレン|label=ミューレン|en|Adam Frans van der Meulen}}画]]
ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させたが、ルイ14世はまだ満足していなかった。翌[[1679年]]、彼は外務担当国務卿[[シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ]]を解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世は条約のあいまいさを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],p.88.</ref>。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する[[統合法廷]]が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった<ref>[[#佐藤 2010b|佐藤 2010b]],p.153;[[#林田 1996|林田 1996]],pp.225-226.</ref>。
[[1672年]]に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ([[オランダ侵略仏蘭戦争]])<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 152; [[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 63.</ref>。オランダは海軍こそ名将[[ミヒール・デ・ロイテル|デ・ロイテル]]のもとで強力であったが、陸軍は弱体であった<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 64.</ref>。フランス軍は快進撃を続けて[[アムステルダム]]に迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 64-65.</ref>。譲歩による講和を図ったウィットは兄の[[コルネリス・デ・ウィット]]と共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 152-153; [[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 65.</ref>。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 65-66.</ref>。
 
アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化する。[[神聖ローマ皇帝]]、ドイツ諸侯の一部そしてスペインがオランダと同盟を結び、この一方でイギリス議会では利益のない戦争であるとして反戦論が高まり、1674年にイギリスはオランダと和平を結んで撤退した<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 153-154; [[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 66-69.</ref>。オラニエ公は更にイギリスと結びつき、チャールズ2世の姪[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]と結婚もした。この事態にルイ14世はオランダから兵を引かせて、代わりにフランシュ=コンテに攻め込ませ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 69-70.</ref>。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で[[1678年]]に[[ナイメーヘンの和約]]が結ばれる<ref name=chiba154155>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 154-155.</ref>。ルイ14世はスペインにフランシュ=コンテとフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダの占領地は返還し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのはもっぱらスペインであった<ref name=chiba154155/>。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランスの国際的威信を示した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 71-72.</ref>。
これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地である[[ストラスブール]]の獲得を欲していたのである。ストラスブールは[[ヴェストファーレン条約]]によってフランス領となったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世の法的口実に基づいて、フランスは[[1681年]]にストラスブールを軍事占領した<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],pp.88-89.</ref>。ルイ14世は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.156.</ref>。
 
ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させたが、ルイ14世はまだ満足していなかった。翌[[1679年]]、彼は外務担当国務卿[[シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ]]を解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世は条約のあいまいさを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], p. 88.</ref>。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する[[統合法廷]]が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった<ref>[[#佐藤 2010b|佐藤 2010b]], p. 153; [[#林田 1996|林田 1996]], pp. 225-226.</ref>。
ルイ14世の有力な競争相手の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]([[ハプスブルク君主国|オーストリア・ハプスブルク]])は[[オスマン帝国]]との戦争で[[ウィーン]]を脅かされていた([[第二次ウィーン包囲]])。1683年にフランスと戦端を開いたスペインは再び撃破されて、リュクサンブール([[ルクセンブルク]])を奪われた([[再統合戦争]])<ref>[[#佐藤 2010b|佐藤 2010b]],pp.153-154;[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.156.</ref>。1684年のラティスボン条約でスペインはフランスによるリュクサンブールとその他の併合地の既成事実を認めさせられた<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]],p.156;[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]],p.89..</ref>。オーストリアはオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世への敵対行動を取らなかった。
 
これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地である[[ストラスブール]]の獲得を欲していたのである。ストラスブールは[[ヴェストファーレン条約]]によってフランス領となったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世の法的口実に基づいて、フランスは[[1681年]]にストラスブールを軍事占領した<ref>[[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], pp. 88-89.</ref>。ルイ14世は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 156.</ref>。
 
ルイ14世の有力な競争相手の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]([[ハプスブルク君主国|オーストリア・ハプスブルク]])は[[オスマン帝国]]との戦争で[[ウィーン]]を脅かされていた([[第二次ウィーン包囲]])。1683年にフランスと戦端を開いたスペインは再び撃破されて、リュクサンブール([[ルクセンブルク]])を奪われた([[再統合戦争]])<ref>[[#佐藤 2010b|佐藤 2010b]], pp. 153-154; [[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 156.</ref>。1684年のラティスボ[[レーゲスブルクの和]]でスペインはフランスによるリュクサンブールとその他の併合地の既成事実を認めさせられた<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 156; [[#メチヴィエ 1955|メチヴィエ 1955]], p. 89..</ref>。オーストリアはオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世への敵対行動を取らなかった。
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