「上田卓三 (政治家)」の版間の差分
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[[1988年]]に[[リクルート事件]]が発覚した際には[[コスモスイニシア|リクルートコスモス]]の[[未公開株]]の譲渡先の一人であったことが判明し、議員を辞職([[1988年]][[11月4日]])したが、折からの社会党の[[土井ブーム]]などによる追い風もあって2年後の[[第39回衆議院議員総選挙|衆院選]]で国政復帰。前年の[[第15回参議院議員通常選挙|参院選]]では自らの秘書だった[[谷畑孝]](現在は[[おおさか維新の会]]衆議院議員)を[[参議院議員]]に送り込んでいる。[[1993年]]の[[第40回衆議院議員総選挙|衆院選]]で落選し、政界を引退。その後[[1996年]] - [[1998年]]に部落解放同盟委員長を務めたが、2005年5月26日、[[肝不全]]のため死去。[[享年]]66。晩年は、人権擁護法案制定に反対する声明を出したり、[[にんげん社]]から「新憲法制定のススメ」(自衛隊明記、大統領制、連邦制)を出すなど異色な行動をとった。
「
中企連時代には税務当局に圧力をかける姿勢を見せていた時代もあったが、現在では税務当局とは基本的に穏健路線を取っている。時代背景や同和利権のイメージの払拭が社名変更の理由のひとつであったが、対立姿勢の軟化により逆に課税額減の交渉にる対税務職員との贈収賄事件に発展するなど、税務職員との癒着の疑いといった新たな問題も浮上している。</ref>。
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