「エルマー・フリック」の版間の差分

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フィリーズには1901年まで在籍し、翌1902年に創設して間もないアメリカンリーグへ移り、同じフィラデルフィアを本拠地にしたアスレチックスに所属する。ところがフィリーズが、州の裁判所命令をたてにこの移籍の無効を訴え、結局アスレチックスでは11試合にしか出場できず、チームメイトだった[[ナップ・ラジョイ]]らと共にクリーブランド・ナップスと再契約することになった。
 
以後引退する1910年まで、ナップスの外野として活躍する。1904年と1906年に盗塁王となり、1905年には首位打者を獲得する。この年のフリックの打率は.308で、これは後年、1968年に[[カール・ヤストレムスキー]]が首位打者になった時の打率(.301) に次ぐ、リーグ史上2番目の低さだった。また1905年から3年続けてリーグ最多の三塁打を放っている。1907年のオフには、当時21だった[[タイ・カッブ]]とのトレードの話が持ち上がったものの、これを球団が断ったほどの活躍ぶりだった。
 
ところが1908年にフリックは[[胃炎]]を患い、同年以降はフルシーズンでの出場ができなくなってしまった。1910年を最後にメジャーから降格、以後2年間マイナーリーグでプレーした後引退した。