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|subdivision_name1 = 広東
|leader_title = 市委書記
|leader_name = 雁雄(市長より昇格)
|leader_title1 = 市長
|leader_name1 = 王蒙徽
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== 歴史 ==
汕尾市では約6,000年前の新石器時代の遺跡が発掘されており狩猟や漁撈を中心に活動が行われていた。古来は[[百越]]の活動地であり、中原の影響が及ぶようになったのは[[秦|秦代]]以降である。秦から[[前漢|漢]]にかけては南海郡羅県が設置されていた。[[紀元前111年|前111年]]([[元鼎]]6年)、漢の[[武帝 (漢)|武帝]]により[[南越国]]が滅亡すると汕尾地区に海豊県が設置され中原王朝の直接支配が開始された。[[591年]]([[開皇]]11年)、[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]は東官郡と梁化郡を合併し循州を設置し、海豊県も循州の管轄となった。
 
[[622年]]([[武徳]]5年)、[[唐]]の[[李淵|高祖]]は海豊県の東部に安陸県(現在の[[陸豊市]]、[[陸河県]])を設置したが、[[627年]]([[貞観 (唐)|貞観]]元年)、[[太宗 (唐)|太宗]]により廃止となり海豊県に戻されている。[[五代十国時代]]、循州が禎州と改称され、[[北宋]]時代の[[1021年]]([[天禧 (宋)|天禧]]5年)に皇太子であった[[仁宗 (宋)|趙禎]]に名諱し恵州と改称され、海豊県のほかに博羅、河源、帰善の各県が広南東路恵州の管轄となり、その後も行政区の改変が行われたが近代まで汕尾は恵州の管轄におかれていた。