「柳寛順」の版間の差分

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[[1902年]]、[[忠清南道]]天安郡(現・[[天安市]])龍頭里にて、父柳重權、母李少悌のもと、5人兄弟の2番目の娘として生まれた。柳重權は開明的な人物であったが、「興護」という私立学校を設立したため多額の借金を抱える貧しい家庭であった。[[1916年]]、キリスト教[[メソジスト]]の米国人女性宣教師アリス・シャープの援助によって、[[京城府|京城]]の[[梨花女子大学校|梨花学堂]]に給費生として入学した。
 
[[1919年]]、[[三・一独立運動]]が勃発すると[[朝鮮総督府]]から各学校に対して休校命令が下された。故郷の天安に帰り、教会関係者などを通じて万歳デモを計画した。4月1日、柳寛順は並川市場に集まった群集に独立運動のアジ演説を行い、デモ行進に移った。しかし、日本の憲兵警察は群集に発砲し、柳寛順の父母も死亡した<ref group="注釈">裁判所の公式記録である判決文(大正8年6月30日言い渡し)、柳寛順の囚人識別票の資料によれば、[[内乱罪]]の適用などは無く、懲役2年6箇月とされている。罪状も上の事実のうち主たる先導者であること、演説を行ったこと等は資料上からは確認できない。</ref>。
 
一審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告された。控訴審裁判で裁判長と言い争いになり、裁判所の椅子を裁判長に投げつけたために[[法廷侮辱罪]]で7年の刑期になったとまことしやかに伝えられているが、誤りである。[[高等裁判所]]に上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は2年6ヶ月となった<ref group="注釈">判決当日(取調べ中という説もあり)に行なったと言われる法廷侮辱罪や7年の求刑も裁判記録になく、前述の通り微罪による懲役2年6箇月の言い渡しを受け、控訴せずに、西大門刑務所に服役した記録のみである。</ref>。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。[[1920年]][[10月12日]]([[9月28日 (旧暦)|旧暦9月28日]])、[[西大門刑務所]]内で獄死したとされるが、死亡日時や確実な死没地には様々な説がある<ref group="注釈">拷問により死亡との説もあるが、これに対応する取調べ記録は作成されていないため残されていない。</ref>。
 
なお、[[天安市]]に「柳寛順体育館」がある。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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<references group="注釈" />
=== 出典 ===
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