「チャールズ・ウィルソン・ピール」の版間の差分

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1762年、ピールはラチェル・ブリューワー(1744年-1790年)と結婚した。夫妻には10人の子供が生まれた。息子にはラファエル・ピール(1774年-1825年)、レンブラント・ピール(1778年-1860年)およびルーベンス・ピール(1784年-1865年)がいた。娘にはアレクサンダー・ロビンソンと結婚したアンジェリカ・カウフマン・ピール、ヘンリー・ボトラー博士と結婚したプリシラ・ピール、およびコールマン・セラーズと結婚したソフォニスバ・ピールがいた。
 
1791年、ピールはエリザベス・ド・ペイスター(1804年没)と再婚した。この2人の間には6人の子供が生まれた。1795年10月15日に生まれた息子[[フランクリン・ピール]]はフィラデルフィア造幣所で貨幣鋳造主任となった。末の息子[[ティティアン・ピール|ティティアン・ラムゼイ・ピール]](1799年-1885年)は重要な博物学者となり、写真の分野でも先駆者になった。
 
1802年、娘のエリザベス・ド・ペイスター・ピール(1802年-1857年)が生まれ、この娘は後の1820年にウィリアム・オーガスタス・パターソン(1792年-1833年)と結婚した。
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1804年、ピールはフィラデルフィアの[[クエーカー]]教徒ハンナ・モアと3度目の結婚をし、ハンナは前の2人との間に生まれていた子供達を育てた。
 
ピールは[[ルネサンス]]的教養人と言っても良いくらいの者であり、絵画だけではなく、木工品、歯科技工、検眼、靴作り、および[[剥製]]術など多様な分野でその専門性を示した。数冊の著書を著しており、中でも『木製橋建設に関するエッセー』(1797年出版)や『健康維持手段に関する友人への書簡』(1803年出版)が著名だった。ピールはその息子達全てに芸術家や科学者の名前を付けており、絵画を教えた。その息子達の中で、レンブラント、ラファエルおよび[[ティティアン・ピール|ティティアン]]の3人は独立して著名な画家になった。
 
ピールは[[連合会議]]代議員のナサニエル・ラムゼイやその弟[[デイビッド・ラムゼイ]]とは義兄弟だった。